tsunamiや地震の衝撃的な記憶を、うまく英語で伝えられない
私は今アメリカに留学しています。3月11日、アメリカ人の友人やホストファミリーとの会話の中でもtsunamiの話が出ました。
一番最初にしたのはホストファミリーとでした。彼らは60代の夫婦で「あの地震の時あなたはどこにいたの」と、私に尋ねました。私は地元の、震源地とは離れたところにいて小学校の授業中に揺れだしたこと、いつもとは違う不気味で長い地震だったことを伝えました。家に帰ってテレビで見た映像がいかに衝撃的だったか、忘れることのできないものだったか、伝えました。彼らは神妙に頷きました。
数日後に日本で同じような場所、同じような大きさの地震が起きたのをきっかけにもう一度tsunamiについて話す機会がありました。
このとき周りにいたのは一人のアメリカ人教師とアメリカ人の友人たち、イタリアからきた留学生と私と同じ日本人でした。アメリカ人の友人の中にはtsunamiや一連の出来事について知らず、あの映像を知らない子もいました。私は拙い英語でどれほど衝撃的な記憶だったかを伝えようとしましたが、私の力では思うようにどれだけ重い話題なのか伝えることができないまま、そのときボランティア活動もあったよね、といった話で締めくくられてするっと次の会話へと移っていきました。
このtsunamiに対する扱いの軽さに、自分の無力さと言語の壁の厚さ、その根底で形成された文化の違いを感じて今までにないような虚無感に包まれました。
tsunamiは単なるnatural disaster ではない
2011年の3月11日は私は地元にいただけでした。しかし昔、保育園にいたころに地震の被害を経験しています。私の住んでいた地域よりも酷い状況だった場所はありましたが、家は修繕が必要なほどに壊れ、私たちも避難を余儀なくされるほどには被害を受けました。本震が来たとき私は祖父母の家の台所にいたのを覚えています。揺れが収まると余震が来る前に外に避難し車の中で母が職場から帰ってくるのを待ちました。母が無事に帰ってこれるのか、今どのような状況になっているのか怯えながら車の中で近所の様子を見に行った祖父を待ちました。
この幼少のころの経験からか、私は地震や津波に敏感になっているのかもしれません。私の中で、特に津波とはタブーであり忘れがたい体験であり、畏怖すべきものとして認識しています。あの日テレビで流れた、人が長い時間をかけてつくりあげた田んぼや街を、一瞬にして飲み込んでいった津波の映像ははっきりと頭にやきついています。それだからか、友人たちのあっさりとした態度に違うだろう、と感じました。身勝手ながらもっと重く受け止めてほしいと思いました。もちろん災害のあとの復興支援には特筆すべき点がありますが、私にとって言及すべきは3月11日に思い出すのはあの災害の凄惨さなのです。tsunamiは単なるnatural disaster ではありません。
留学しなければ、どのように認識されているのか知らないままだった
アメリカでは地震は身近ではなくハリケーンの方が存在感があります。当たり前ですが、私たちはハリケーンの恐怖を知りません。同じようにアメリカ人もtsunamiの恐怖を私たちと同じように感じることができません。これらの災害について話しているときに感じる心の痛みは一緒ではありません。例え流暢に英語を話せたとしても共有することができない概念があることにショックを受けました。文化の違いを考慮しないままあの地震と津波は世界的に有名だと驕っていたがために、tsunamiに対する世界の認識はこんなものなのか、と落胆しました。戦争を経験した人々がテレビで訴えるような、若い人々にこの歴史を伝えなければならないという言葉の裏には、このような自分たちと他との間に存在するわかりあえない認識の差への悲しみがあるのでしょうか。アメリカに行かなければ、私はtsunamiが世界でどのように認識されているのか知らないままだったかもしれません。