自殺した彼女は、いたってどこにでもいそうな普通の子に見えた
これから、苦しい話を書こうと思う。自殺についてだ。未遂じゃなくて完遂した自殺。
もちろんこれを書いている私は生きているので、他人のことだ。
他人といっても高校の友達。そう、高校時代、私の友人の一人が亡くなった。
至ってどこにでもいそうな、普通の子に見えた。見た目も普通で、喋れば普通に楽しくて、勉強も運動もほどほどで、友達もそれなりにいるような子。
クラスも部活も違うので、すごく仲良くなったわけではなかったが、すれ違えば挨拶をする程度の仲ではあった。全くもって暗い雰囲気はなかった。むしろよく笑う子で、特にいじめられているとか、家庭環境が複雑だとかいう話は聞いたことがなかった。
本当に平凡、という言葉がぴったりの平凡な子(私も含めて)。学校で何か問題を起こしたとか、リストカットをしたとか、そういう話も一切聞かなかった。
だが実際は、特に問題がないように見えただけなのだろう。心のうちは本人以外、誰にも分からないのだから。
全校集会で告げられた彼女の死因は交通事故。すぐにおかしいと察した
年が明けた新学期、彼女は学校に来なかった。
そして全校集会が開かれ、彼女は交通事故で亡くなったと告げられた。集団は一気にざわめき、特に仲良くしていたという子は呆然とした様子だった。残された生徒の心のケアのために、外部からもカウンセラーが派遣された。
だが、私はすぐにおかしいと察した。絶対に事故死じゃないと勘づいた。なぜなら、本当に交通事故なら交通安全教室を開くとか、通学路に教職員を配置するとか、そのくらいの対策はするはずだからだ。なのに、「みなさんも車には気を付けましょう」とか、「自転車には必ずライトを付けましょう」とか、そういう呼びかけのひとつもなかったのだ。
ただ彼女の死が告げられ、数秒間の黙祷をして、集会は終わった。私は涙する友人を慰めつつ、教室に戻る道すがら、彼女の本当の死因をなんとなく察していた。
数日が経ったあと、その疑いは現実となって返ってきた。私は彼女のSNSアカウントを探し当て、その最期の書き込みを見たのだ。
そこには遺書ともとれる内容の書き込みが、びっしりと連ねてあった。そして目にこびりついた、文末の「さようなら」の文字。
ああ、やっぱり……と私は思い、ひそかに彼女のSNSを閉じた。
このことは友達にも、先生にも、誰にも言わなかった。できれば知りたくなかったなと思いつつ、きっといつか知る運命だったのだと思った。でなければ、死が告げられたあのとき、私は何の疑問も抱かなかっただろう。
事故死だと信じ切っていたら、彼女のことも記憶に残っていないだろう
卒業式の日に配られた卒業アルバムには、彼女の名前も顔写真もなかった。彼女は卒業できずに、永遠に高校生のまま、その生涯を自らの手で閉じたのだ。
載ってないな……と思いつつ、そのことも周囲の人には黙っておいた。
たった10数年の短すぎる人生。生きていればまだ良いことがあったかもしれないのに、なんて言える立場ではない。希望も未来も見えず、絶望の淵に立たされて、その命を投げ出したくなる気持ちが、私にも分かるからだ。なのにそういうときに限って、「悩みがなさそうだね」とか言われたりするものだから、本当に人の心を推測することは難しい。
今でもビックニュースが世間を騒がせるたびに、彼女や自殺が報じられた芸能人を思い出しては、「このことも知らないまま天国に行っちゃったんだな」と思ったりする。
あのとき、私がもし事故死だと信じ切っていたら、今頃は彼女のこともあまり記憶に残っていないのだろう。けれど、真実を知っているから、彼女は少なくとも私の記憶の中でまだ生きている。
こんなふうに言うのもおこがましいけれど、私は彼女に残されていたはずの人生を、彼女の分まで強く生きたいと願っている。