11年前の12歳の私へ。
今すぐ救急避難バックを作りなさい。なぜなら東日本大震災という大きな災害が東北を、日本を襲うからです。
突然地響きがして、大きな揺れが起きます。小学生の私たちは生まれて初めての大地震でパニックです。靴に履き替える時間もなく、ランドセルを背負うこともできず上履きで校庭へ避難します。

やっとの思いでたどり着いた我が家は窓が割れ、壁には亀裂が走り、部屋の中はもちろん家全体が大きく傾いていて、とても悲惨な状況です。
だけど数日後、家が半壊なんてどうにでもなる、と思う程にもっと衝撃的な事が起きます。だからあなたに今伝えたいのです。

卒業式を数日後に控えたその日、信じられない揺れが私たちを襲った

小学校生活も残りわずか。数日後には卒業式を控えていた私たち。震災が起きたその日は4年間続けた合唱部のお別れ会の日だった。
先生や保護者さんたちがケーキやお菓子をたくさん用意してくれて、下級生たちが6年生を送ってくれる。小学生とは思えないほどの練習量で、様々な大会に出ていた私たちには年に数回も無い貴重な楽しい時間だった。

突然、準備の最中いきなり地響きがした。その途端、信じられないほどの大きな揺れが私たちを襲った。みんな必死に訓練で習ったように机の下に身を隠し、揺れが弱くなったころに先生達に手を引かれ上履きのまま校庭まで走った。

しばらくして父が迎えにきてくれ、妹と3人で手を繋いで帰った。中学生だった姉はその日卒業式で、式後に母と一緒に近所のケーキ屋さんへ出掛けていた。
夜になり、ようやく家族5人が揃う事ができた。止まらない余震と停電の中、我が家は石油ストーブとろうそくで夜を過ごした。

日本はどうなるのだろう。約1ヶ月の避難所生活を支えてくれた人たち

翌朝、停電が直りテレビをつけたら信じられないニュースが流れていた。福島第一原発が水素爆発。あの映像は本当に衝撃的だった。

原発からそう遠くない私たちも避難を余儀なくされた。私たちは那須の避難所へ身を寄せた。避難所へ向かう途中、食料を買うためスーパーへ寄り、かろうじて残っていた缶詰を買い込んだ。朝早く出てきたのに店内にはほとんど食料が残っていなかったのだ。
そしてガソリンスタンドは長蛇の列。横から割り込む車を何台も見た。日本はどうなるのだろうか。幼心に哀しみを感じたことを今でも覚えている。

私たちは約1ヶ月間、埃のある体育館の床にマットを敷いて寝ていた。3月だとはいえ、流石に夜になると底冷えして寝るのが辛く、埃で咳も出る。隣の人たちとの隔たりはたった一枚のダンボール。ゲームも勉強道具もない、そんな生活だった。

しかし避難所のボランティアの人たち、那須の人たちは本当に優しく、見ず知らずの私たちを笑顔で迎え入れてくれた。近くのケーキ屋さんはクッキーやマフィンを焼き、おやつの時間に差し入れしてくれた。那須の温泉施設は週に2度、シャトルバスで迎えに来て私たち避難者を無償で温泉に入れてくれた。

周りの人達に本当に支えられて、私たちは約1ヶ月の避難所生活を無事終える事ができた。
4月になり、私たちの地区は帰宅可能になったため、それからはいつも通りの生活に戻る事が出来た。

震災を風化させてはいけない。次は私が多くの人を助けられるように

ただ原発近くの避難区域、津波に飲み込まれてしまった街。全壊した家屋。まだまだ手付かずの被災地。11年経った今でも復興の手は止められていない。東日本大震災からいくら時が経ってもこの出来事は風化させてはいけない。

今の私に出来ることはこの震災をたくさんの人々に伝え、発信し続けること。そして復興への力になり続ける。少しでも早く帰宅困難者が戻れるように。少しでも早く被災地の方々の心が癒えるように。

だから12歳の私はどんなに辛くても家族や、友人など1人でも多くの人をあなたの笑顔で救って下さい。長く大変な避難所生活が続くけれど、最悪なことばかりではないから。
たくさんの人たちにもらった温かい気持ちをこれから先も決して忘れないで。このことをずっとずっと胸に刻んで、大人になってからも少しずつでも恩返しができるように。
次はあなたがたくさんの人を助けられるように、その経験を活かして生きてください。