地球のために行動できるほど、私はやさしい人間じゃない。多少環境に負荷をかけようと私は自分の「便利」で「楽」な生活を優先したい。SDGsやエコ、サステナブルよりも、それは私にとって大事なものなのだ。

私は自分に嘘をつきながら、無理してエコなことをしようとは思わない。決して褒められた価値観ではないけれど、みんな口にしないだけで、本当は私のような価値観を深層心理で抱いている人は少なくないのでは?

どこか胡散臭く感じる。地球のために活動する「エコ」という言葉

「エコ」とか「環境を守ろう」とか「SDGs」とか、その類の言葉をどこか胡散臭く感じる自分がいる。一生懸命、地球のために活動をしている方々がいることを考えると本当に申し訳ないが、誤解を恐れずに言うと、どこか宗教じみているようにすら感じる。よく知りもせずに一部の過激な環境団体ばかり目立って私の目に写ってしまい、勝手に偏見を抱いているのかもしれない。

嫌悪感を抱いているのは、環境団体に対してだけではない。個人に対してもそうだ。まるで意識の高い海外モデルの真似事をしているようで、ファッション感覚でエコを楽しんでいる方々がどうも滑稽に映った。

もちろん分かっている。本当に滑稽なのは彼らではなく、大して環境のことも考えていないのに嫌悪感を抱いている私自身だということを。

私自身のために行っていることが、エコ活動につながっていた

周りのことをそうやって言うのなら、私自身はどうだろうか。何かエコっぽいことをしているだろうか?と自分に問いかけてみた。
それが意外なことに、それなりにエコなことをしていた。

  • 服をあまり買わないことで地球全体のゴミを減らしている
  • オーガニックコスメを使用している
  • ヘアカラーやパーマをしないことで薬剤による環境汚染に配慮している
  • 牛乳ではなく豆乳を飲むことでサステナブルな消費に貢献している

これらはあくまでも一例だ。メモに書き出したら、思っていた以上に多くのエコ活動をしていることに気づいた。

すべて、私が私自身のために行っていることだ。別に環境のためにしているわけではない。環境のためになっていた、というのは結果論にすぎない。

「地球や環境のため」は苦しいから。自分のためになるエコ活動をする

わざわざ環境のために新しいことをするのなら、それはそれでいいのかもしれない。楽しんでやれる人もいる。
でも、私はまだエゴを貫きたい気持ちがある。率先して地球を汚染しようとしなくても、世の中の便利な部分を享受して生きることを選ぶ私は、それだけで環境破壊に貢献してしまっている。

その自覚はあった方がいいとは思う。どんなに環境にいいことをしていても、環境を一切破壊せずにいることは不可能だ。私たちは矛盾の中を生きていて、その自覚はあったほうがいいと思うのだ。

ただ闇雲に「環境にいいから」と言われていることをするのではなく、意思を持ってその行動をしたい。例えば、マイ箸やマイボトルなど、一般的にはいいと言われているものでも、実際には使用したそれらを洗うために水を汚すことになる。ならば、最初から再生可能な紙コップや捨てる予定だった木から作られた割り箸を使った方が環境にいいということもある。

なぜそれが環境にいいのか?
そもそも本当に環境にいいのか?
それをすることによって自分自身がしんどくならないのか?
……そうやっていろんなことを考えて取り組んでいきたい。

大前提として、「環境のために」「地球のために」という動機で始めるエコ活動は、きっと私は長く続かない。でも、「自分のために」始めたエコ活動なら続けられる。例えば買う服の枚数を減らすことも、「ゴミを減らしたいから」と思うよりも「節約したいから」と思った方がよっぽど私には合っている。環境にやさしいオーガニックシャンプーだってそう。香りが好きだから、使っているとお洒落な気分になるから。そんな理由の方が長く続く。

エコなことをしていると、どうも偽善者な気分になってしまう。私は考えすぎなのかもしれないし、自意識過剰な部分があるのは自覚している。でも、「環境のために何かをしている」「地球に優しい私〜!」という感じがして、どうも居心地が悪い。その感情が強すぎるあまり、エコな活動をしている方々を「胡散臭い」と感じてしまう……のかもしれない。

私はそこまで地球のために優しくはなれない。でも、自分のためになら地球にも優しくできる。エゴが理由のエコは、長続きする。