香川県へ、一人旅。そこで気づいた私が本当にやりたかったこと
若者の楽しげな会話が飛び交う飛行機。
ほぼ満員の機内で、私の隣だけ席が空いている。
あろうことか友人に旅行をドタキャンし、一人旅に来てしまった。
場所は遥か遠い、香川県。
行きたい場所は1つ、ある画家の美術館だけだった。
もともと友人が考えてくれていた有名な観光地には、実際のところ1つも興味がなかったのだと、自分の無関心を思い知らされる。
とても小豆島のような人気スポットや市街地ではないためか、空港から目的地に向かう大きなバスに乗っているのは、帰省らしきサラリーマンと私だけだった。
少し暑すぎる暖房の風でふと自分の香りが立ち上がり、体温のある生き物として、息づいていることを実感する。今日は香水をつけていないからか、何とも「人間の香り」がした。見知らぬ場所でも、身体だけはいつも通りの私だった。
「この街にいる人たちは一人とて、私が誰かを知らない」
そんな当たり前の事実が新鮮で、少し不安で、でもたまらなく私をワクワクさせた。
江國香織さんの小説の、ある一節を思い出す。
「自由とは、それ以上失うもののない孤独な状態のことだ」
友人も、家も、たくさんの衣服も、「美しい思い出を残さなければ」という重荷も、全て故郷に置いていった私は、自由そのものだった。
雨が波面に打ち付ける瀬戸内海をぼーっと眺める。1つの絵の前に15分留まる。100人定員のアトラクションに一人で乗る。同じうどん屋に3回行く。わざわざ各駅停車のバスで、遠い空港まで行く。
そんな風に非効率で、ちょっと馬鹿げていて、写真にも残らないようなことをただひたすら、心の赴くままに重ねた。
「完璧じゃなくて良い」「いい旅じゃなくても構わない」という諦念が一周して、私自身が本当にやりたいことへと、巡り合わせてくれたのである。
他人に影響されず、自分の心がときめく選択を重ねていきたい
「旅行、行こうよ」
この誘いを断れる人が、実際どれほどいるだろう。
「ご飯に行こうよ」はまだ断りやすい。なぜならこの言葉をかけてくる人は、まだあまり親しくない人も多く、「ちょっと今忙しくて……」の言い訳も通じる。
ただ旅行の場合、そもそもある程度仲の良い人しか誘ってこない上、旅行の予定は「合えば行くもの」ではなく「合わせにいくもの」であるから、多忙が断る理由にはならない。
しかし、誘いを断ってはいけないというルールなど、本来どこにもないのだ。
時に自分の香りにむせ返りそうになったり、愛だの幸せだの大層なテーマに想いを馳せたり、自分にだけ時間も心もつかうような機会があって良い。
思えばいつからか、みんなの欲しいものが私の欲しいものに成り代わっていた。
有名な観光地、新作のバッグ、いつも一緒にいる“親友”の存在、などなど。
もう騙されないぞ、と思う。おい、そこの欲求は、みんなの欲求であって私の欲求ではないんじゃないか? 心の審判がよく働くようになった。
良くも悪くも、本当の意味で所有できるのは自分の身体のみだと気付かされたこの旅。
もっと身軽に、自分が本当に心ときめくような選択を重ねていきたい。