中学生くらいの頃から、見てくれを褒めてもらうことが割と多かった。
「美人」「可愛い」「高嶺の花」。私は褒め上手さんに囲まれて生きてきたようで、かなり大袈裟に褒めてもらっている気はするけど、こういうことを言ってもらうのは、さほど珍しいことではなかったと思う。

私の中身を知らないのに、「理想の私」に恋をする人は浅はかだ

学生時代、部活に入っていなかった私は、他クラスに友達や知り合いが少なかった。私自身も、仲良しの友達数人と一緒にいればそれでよくて、あまり外に目を向けていなかったから、同学年といっても知らない人ばかりだった。

学校のどこかで私を見かけた男の子が、きっと色んなフィルターがかかって素敵な女の子と化した空想上の私に恋をして、友達づたいに連絡先を聞いてきたり、アピールをしてくれたりすることがたまにあった。
顔も名前も知らない先輩が、下校途中に後ろから大声で私の名前を叫んだこともあったし、他クラスの男の子が友達に冷やかされながら私のいる教室にやってきて、これまた私の名前を叫んで逃げて行ったこともある。愛を叫ぶのが流行っていたのかな……。

よく知らない人に、知らないうちに好意を寄せられる。そんな経験が重なるうちに、私にアピールしてきてくれる人のことを、「私の中身を全然知らないのに好きと思うなんて、浅はかな人だな」と感じるようになってきた。それは“本当の好き”じゃない!と。
10代そこそこが何言ってんだという気しかしないが、求める恋愛の純度みたいなものが高くなってしまったのだ。そのせいで、多分素敵な恋愛のチャンスをたくさん棒に振ってきたと思う。

外見に惹かれることや性愛は「真実の恋愛?」と考えていた

「君の顔が好き」。基本的には素直に嬉しいが、好きな人に言われるとなんとなく複雑な気持ちになる。
表面的な可愛らしさとか、そそられるセクシーさとか、そこから始まる恋愛は真実の恋愛じゃない。そんな、ある種潔癖症のような考え方の呪縛が解けてきたのは最近のこと。
何か劇的な出来事があって変わったわけではなく、ちょっと恋をしたり、人の話を聞いたり、音楽を聴いたり、本を読んだり、色々な愛があるんだと知るなかで、ちょっとずつ緩んできたのだ。

私自身が、すごくハンサムだと思った男の子に「顔が好き!」と言ってしまったとき。顔以外にも彼に素敵なところがたくさんあるのは前提だし、彼が喜んで笑ってくれないかなと思ったから口にしたし、何より私のことを気になって欲しくて言った。浅はかでも軽薄でもなく、恋ってこういうものではないのか?

振り返ってみれば、そもそも私は昔から自分の外見を磨くことに精を出していた。
中学の校則で眉毛を整えるのは禁止だったけど、せっせと抜いたり剃ったりして先生に怒られていたし、メイクやファッション、スキンケアや脱毛にそれなりの時間やお金を費やしてきた。
そうやって見た目を磨いておきながら、褒めてくれる人のことを「浅はかなヤツ」って思うなんて、我ながら何をしたいのかよく分からない。

さらには恋愛経験の少ない私をリードしてくれる、余裕たっぷりでセクシーな人との出会いもあった。今まで閉ざしていた性愛の扉が開かれるように、触れ合ったりキスをしたり、そういうことに夢中になっていった。
そんなときに、ふと考える。私はこの人の心に一切の興味がなくて体さえあればそれで良いなんて、そんなことを思っているのだろうか?

これからの恋愛はもっと素直に純粋無垢に。見てくれも武器にする

逆に、今まで私が求めていた“本当の好き”って何?きっと世の恋愛には、不誠実な気持ちとか嘘とか、不純物みたいなものが色々混じっていることもあるだろう。そう感じるものは逃げなきゃいけないし、逃げ切れなかったら残念ながら傷ついてしまうのかもしれない。

相手に“本当の好き”なんて求めるのはやめて、私は自分でも知らないうちに感じている“素直な好き”という自分の気持ちと向き合う方がきっと良い。それをそのままぶつけるべき。経験がなくて丸腰でも、騙されやすい性格でも。純粋無垢な私の気持ちは、きっと最強の武器になる。それに私は見てくれだって悪くない、ただの可愛い女の子なのだから!