ずっと憧れ続けていたその袖に手を通したとき、はじめて生まれ変われた気がしたのだ。
今、私は古着を愛している。一般的に売られている新品の服も好きだが、どちらかと言われれば断然古着を選ぶ。理由の大部分は、やはり好みによるところだ。

古着屋に入るときの気分は考古学者。色褪せた生地も全部がロマン

古着と聞くと、独特の柄や色をふんだんに盛り込んだ服を想像する人が大半だろう。私も、その独特な雰囲気に惹かれた者のひとりだ。
しかし、それだけではない。古着には古着にしかない力がある。

古着とは歴史の発掘だ。こう語ると専門の方に怒られてしまうかもしれないが、古着屋に入店するときの気分はまるで考古学者だ。
新品にはない、歴史を持った服たちが店頭に並び、また新しい人の手に渡る。その歴史を肌で感じるために赴く。
どうだろう、すこしくらい似てはいないだろうか。そしてリサイクルされずに生き続けた歴史の次のページを、今度は自分が紡ぐのだ。

もちろん古着屋の雰囲気も大好きだ。雪崩れ込んでくるような布の圧力と防虫剤の香りで、まるで博物館に来た気分になれる。色あせた生地も、掘り起こしたハンガーラックの隙間も、全部がロマンだ。この「博物館」が比喩ではないこともわかっていただけたなら幸いである。
そしてその中から、唯一無二の柄に出会えたときの高揚感は、何ものにも代えがたい。良くないことは分かっているが、値札を見ずにレジへ駆け込むこともしばしばだ。

だが、今では物怖じせず着る変な柄シャツも派手な色のトレーナーも、昔は「似合うわけない」 と遠ざけていた。無個性な私服を見下ろして、店の前を通り過ぎる。似合わないと思い込んでも、横目でちらりと見るその柄はいつまでも輝いて見えたのだ。

古着屋街の人々は無個性な私に見向きもしない。この無関心に安心した

そんな私が古着を愛するようになったきっかけは、誰も私を知らない土地に移り住んだこと。社会人になって住む場所が変わり、はじめての散歩で見つけた古着屋街に圧倒された。

そこには、私の求めていた個性がたくさん詰まっていた。
店内の人々は誰も周囲を気にせず服と向き合っている。無個性な私がどんな服を手に取ろうと誰も見向きもしない。この無関心にひどく安心した。服とは私が思っている以上に、カンタンな存在で良かったのだと、このとき気がついた。
そして一枚の派手なシャツを見つける。時計の絵が散りばめられたデザインがえらく気に入った私は、すぐさまレジに向かいお金を支払って店の外に出た。はじめての古着は、その時計柄のシャツになったのだ。

そういえば試着もしなかったな、と帰宅してから思い出す。似合うかもわからない服を試着もせずに勢いで買ってしまうなんてと少し後悔する。今さら遅いが、一度着てみようと思った。

袖に手を通して姿見の前に立つと、案外似合う自分に呆けてしまった

手洗い、うがいを済ませて一息ついて、シャツの袖に手を通す。緊張混じりにギクシャクしながら姿見の前に立つも、次の瞬間呆けてしまった。
なんだ、案外似合うじゃないか。
今思えば、その時計(服の柄だけど)から私の新しい時間は刻まれ始めたのかもしれない。少し上手いことを思いついて、一人くすくすと笑ってしまった。

今ではすっかり派手な古着が、クローゼットの大半を占めるようになった。そしてクローゼットを開けるたびに感じるのだ。
「生まれ変わった自分の時と、愛する古着の歴史が並走するこの心地よさは何ものにも代えがたいことだ」と。
憧れ続けた古着への愛が、昔の私を変えてくれた。敬愛と親愛を抱いて、私は今日も大好きな服をまとって出かけるのだ。