私の両親は、敬虔なクリスチャンだ。毎週日曜日の礼拝は絶対に欠かさないし、毎朝毎晩、そして毎食ごとに祈りをささげる。幼いころから私も両親とともに教会へ行き、家でも教会でも聖書を学んだ。

だから、結婚の定義もはっきりしていた。結婚は、「愛し合う“男女”に与えられた、神様からの贈り物」。そして私にも、神様が用意してくださった素敵な男の人がいる。それが、私が10歳のときに母から受けた性教育の一部だ。

同性愛者を見ると「おえっ」と言う両親に育てられた私ももちろん

父も母も同性愛者が大嫌いだ。ゲイを公表している海外セレブが映れば「おえっ」と言う。海外旅行先では、男同士の外国人カップルに指を差した。

そんな家庭で育った私も、当然のようにホモフォビア(同性愛嫌悪)だった。ゲイは、神様からの恵みを受けられない、かわいそうな人たち。そして、私も女の子を好きになってはいけない。それは「罪」なのだ。

そんな教育に疑問を持つようになったのは、高校生になったころ。周りは彼氏彼女ができ始めて、誰が誰と付き合っているとか、誰が初キスや初エッチを済ませたとか、そんな話で盛り上がるようになったころだ。

初恋も知らない私は、「だれかを好き」と言える人たちが羨ましかった

私には彼氏がいなかった。それどころか、初恋といえるような経験すらまだだった。小学校でも中学校でも、誰のことも好きになったことがない。男友達は多かったし、かっこいいなと思う人もいたけれど、恋と呼べるような感情を抱いたことはなかった。

正直、ちょっと焦っていた。私だって、彼氏と自転車に二人乗りとか、買い物とか、一緒に勉強とかしてみたい。それに、彼氏がいるっていうだけで、同級生たちがキラキラして見えた。

「誰かを好きになるって、どんな感じなんだろう。好きになってもらうって、どんな気持ちなんだろう。」

こう思い始めると、「女の子を好きになってはいけない」という母の教えに疑問を抱き始めた。そもそも「好き」って何だろう?男の子も女の子も「好き」じゃない私には、同性愛だろうが「好き」とはっきり思える相手がいる人が羨ましかった。

何十億という人間の中から愛する人を見つけた奇跡が「罪」なわけがない

大学生になると、恋への憧れは悲しみへと変わっていった。

3年生にもなれば同棲しているカップルは特に珍しくなく、結婚を前提に付き合っている同級生たちもいる。結婚・出産の時期を具体的に考えて就職先を決める子もいた。

でも、20歳を超えても、私には恋人どころか、好きな人すらいなかった。当然のように恋人がいる人たちの幸せが妬ましく、寂しくて、自分が哀れだった。

神様が私に用意してくださっている男の人は、一体どこにいるのだろう?神様を信じていない人でも、こんなに簡単に恋人ができて、結婚していくのに。神様の恵みが与えられなくてかわいそうなのは、ゲイの人たちではなくて、むしろ私のほうなのでは?誰も好きになれない私より、結婚したいほど誰かを愛している人のほうが、はるかに豊かな人生を歩んでいるのではないだろうか?

地球に何十億といる人間の中から愛する人を見つけた奇跡を、どうして同性だからという理由で喜んではいけないのだろう。私には、もう同性愛を「罪」とは思えなかった。

好きな人ができて改めて思う、同性愛者への迫害の恐ろしさ

26歳にしてやっとはっきり好きだと言える人ができた今、私は毎日幸せだ。自分の欠点や弱さも受け入れたうえで一緒に過ごしてくれる人がいる喜びを、私はついこの間まで知らなかった。
やっと手に入れたこの喜びや安心感を他人に否定されたら、一体どれほど悲しくて、腹立たしく思うことだろうか。もし愛する人の死に目に「社会」のせいで会えなかったら…なんて、想像しただけで恐ろしい。

でも、実際にそれを経験している人たちがいる。たくさんのカップルたちが、同性同士というだけで、異性カップルと同等の「人を愛し守る権利」が与えられていないのだ。

神様が同性愛を本当のところどう思っているかは、私にはわからない。でも、聖書に従うなら、差別はしていけないはずだ。同性カップルにも、異性カップルと同等の権利が与えられることを望んでいる。