1年間の垢を落とす断捨離。でもいつも捨てられない一冊の絵本

几帳面な方だった私は、春休みに入って暇を持て余した3月の終わりごろに部屋の大掃除をしていた。
物が多い事が余り好きではないから、使い切ったノートや文房具、いつか使うと思って置いたお土産のお菓子を入れていた綺麗な色の缶など、1年間の垢を容赦なくそぎ落としていく断捨離の時間を毎年楽しみにしていた。

そんな毎年の厳正なるオーディションを、何故か毎年シレっとくぐりぬけるものがあった。
それは一冊の絵本で、どうして私の部屋に昔からあるのか、どんな内容なのか、そして私がこれをどうしても捨てられない理由まで、何にも分からなかった。
分からないまま、毎年その絵本を本棚から抜いてみて、すこしだけ考えて、そしてまたそっとその細い本を棚に戻すのだ。

群れから浮いている小さな1匹の羊が、とある事から天敵の狼に立ち向かい、そして群れの羊たちから認められるという、いわばよくあるストーリで、当時の私は何も心を動かされないまま、やっぱり何故かその本を捨てられずにいた。

仕事でスランプ…実家でめくった絵本は、膝の傷に塗るオキシドールのよう

数年後、実家を離れて東京で仕事をしている私は、言いようもないスランプに陥った。仕事の環境も周りの人も、何一つ問題がないしやりがいのある仕事をしているのに、毎日同じ仕事を繰り返して、自宅で同じルーティンをしながら生活する。
そんな日々に悶々としながらも、何も変われない自分がたまらなく辛かった。

年末に帰省すると一番に自分の部屋に向かった。
定期試験も、部活の練習ノートも、そして死ぬほど苦しかった受験勉強も、全ての私を知っているその懐かしい部屋に帰ると、その“子供部屋の匂い”に思わず涙腺が緩んだ。
正月休みは得にする事もなく、パソコンが入ったトランクはそのままに、当時の日記や通知簿を読んでいると、何の気なしに手がその“幸運な絵本”を開いていた。まるでそのために帰って来たかのように、床に座ってページをめくった。

大人の社会で心が疲れた時に読むその本は、擦り剝けた膝小僧にお母さんが容赦なく塗りこんでくるオキシドールのように、無防備で、痛かった。
優しい水彩画のタッチと、包まれるようなひらがなの表記が、胸をきゅうって締め付けてくる。小さな羊が狼をやっつけて群れに認められる、最後のページをゆっくり捲る瞬間、「ふふっ」と小さな笑みがこぼれた。

その時考えていたのは、「狼ってホントに羊食べるんだっけ?」というもの。疑問の感覚が若干狂気じみているのは置いておいて、その絵本を読んでいる5分間、私は間違いなく絵本の世界の中にいた。それが、心地よかった。

じわじわと力が沸いた。あの絵本はこの瞬間を待っていたのかもしれない

ゆっくり立ち上がって、その本を本棚に戻した時、じわじわと体中から力が沸いて来て、その根拠のない自信が、今の私には何より必要で。きっとこの瞬間のためにこの本は今まで捨てられてこなかったのかなと思った。

いつか私に子供ができたら、この本をきっと読んであげよう。何も感じてもらえないかもしれないけれど、毎年絶対に読んであげよう。そんな決意をしながらリビングに向かうと、しょうゆベースのタレが鼻をくすぐった。
「今日はすき焼きだよ」
のんきに鼻歌を歌うお母さんに、
「さっき部屋にあった絵本を読んだんだけどさ」
そう何となく言うと、
「あぁ、あの羊の。あなた10歳くらいの頃、言ってたよ。『この本は捨てない方がいいと思う』って」

24歳の大人の私を救うために、10歳の私が残してくれたプレゼント。
タイムカプセルを開けた時のような、すこしくすぐったくて温かい気持ちの中、料理を手伝うために水道の蛇口をひねった。