私は昔から本が好き。
今でも月に最低でも5冊程度読む。本は、もはや趣味より生活の一部である。
ひとりっ子のせいか、1人の時間は私にとって至福の時間で何よりのデトックスであった。

私の人生に大きく関わった本。
それは、太宰治の「人間失格」だ。

めくるページが止まらない手の興奮を感じた、「人間失格」との出会い

出会いは中学2年生の頃。
部活のキャプテンや合唱コンクールの指揮者、文化祭のリーダー、勉強に人間関係など学校にいる輝いている笑顔の自分と、部屋に篭り誰とも話さずひたすら小説を読み漁る孤独な自分とのギャップを「正常な人間」だと捉える事が出来ない日がしばしばあった。

ある日、家の近くの行きつけの古書店で宝探しのように見つけた土埃のついた本を私は150円で買った。
家に帰り、私はそれを1日で読了したのを覚えている。

主人公葉蔵は「人間」という生き物を友人や女性、自分自身を通して、信じたり、疑ったりする中で、「生きる」ことは美しく、儚いものとされているが、全くそうでなく憎く、穢らわしいものの様に言う。

捲るページが止まらない手の興奮と、自分の気持ちを言語化されている衝撃で頭が停止する反比例な状態になっていた。

私は陰と陽があるのなら、陰の人間だと思う。
陽の人間を見るとすぐに分かる。
人と話す時に相手がどう思っているか不安にならない人だろう。
世の中には自分と違う意見の人がいたとしても、話し合えば理解し合えると思っている人だろう。
自分に良い話が舞い込んできたなら、それを疑わない人だろう。
世界には愛があると思っている人だろう。
人間社会で生きる上で陽である方が、圧倒的に得であり、人生を謳歌できる気がして私は本性を隠した。

すっかり大学生らしくなった私が久しぶりに本を読んで感じたのは…

本の中で葉蔵は私と同じように、自分を偽りふざけていた所に、ある同級生が「ワザ、ワザ」と言う場面がある。
私は葉蔵と同じように、ゾッと本質を見抜かれた気がした。

そんな中高生時代を経て、私は大学生になった。
本は実用書ばかり読むようになり、昼はリクルートスーツを着て色んな企業へ出向き、夜は栄えた街へ友人とお酒を飲みに行く大学生らしい若者になった。

ある時、本を処分しようと部屋の本棚を片付けていた。
私は人間失格を何年かぶりに手に取った。
それは古本屋で見た時よりも、もっと寂しげだった。
聖書のように何度も何度も読んでいたはずなのに、私は内容すら覚えていなかった。

忘れていたのは内容だけではなかった。
それは自分自身だった。
私はいつしかまた、無理矢理「人間らしく」なろうとしていた。

こんなセリフがある。
「それは世間が許さない」
「世間じゃない。それはあなたが許さないのでしょう?」
私はどこかで、自分の中の陰の部分を世間が許してくれるはずはないと思っていた。
もう中学生のままではいられず、世の中に溶け込もうとしていたのだ。

本棚に並ぶのはお気に入りの本たち。本を読んで見つけた「人生の軸」

この日から鞄の中に小説を入れるようになった。
大学では1人で教室へ移動し、1人で昼ごはんを食べていて、家で小説を書くようになった。
私はそれが素晴らしく心地がよかった。

10年前、5年前、3年前……私たちは変化する。
進化するばかりではない、退化もする。
その為には軸になる何かが必要で、今も本棚には結局捨てられてない幼少期から現在まで、その当時のお気に入り達がいる。

あの頃は共感できなかった一行も今はできる。
あの頃は共感できた一行にも今は反論できる。

太宰治が言っていた『本を読まないということは、その人が孤独でないという証拠』だと。

私はこれからも本を愛し、本と共に生きる。