幼い私に父が買ってくれた絵本が、大好きだった

3才のクリスマスに父から貰った絵本を、26才になる今でも大事に持っている。
真っ白だった表紙は黄ばんで汚れも目立つけれど、買い直そうと思ったことはない。
大人であれば1分で読み終わる、短いこの絵本は、大学進学を機に上京し、そこから2回の引越しをした間もずっと私の傍らにあった。頻繁に読むわけではないが、時々思い立っては手に取っている。
菊田まりこさんの「いつでも会える」という絵本だ。

主人公はシロという真っ白な犬で、みきちゃんという女の子に飼われている。シロはみきちゃんが大好きで楽しい日々をおくっていたが、ある日突然みきちゃんがいなくなってしまう(お墓の描写があるため、亡くなったと思われる)。
もう名前を呼んでもらうことも、頭をなでてもらうこともできない。悲しくてたまらなくなるシロを、ある日、なつかしい声がよぶ。

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シロ、シロ。もう、いっしょに、あそべなくなったね。
いっしょにごはんもたべれなくなったし、あたまもなでてあげられない。
でもね、そばにいるよ。いつでも会える。
今もこれからもずっと、かわらない。
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シロは、目をつむってみきちゃんのことを考えると、まぶたの裏でかわらない姿のみきちゃんと会えると気づく。
目をつむって天使のみきちゃんと会えた笑顔のシロの描写で、この絵本は終わる。

3才児には暗くて悲しく、難しいお話だと思うが、私はずっとずっとこの絵本が好きだった。
正直、あまり意味は分かっていなかったと思う。ただ、明るく楽しい絵本が多い中で、寂しい気持ちになるこの本は印象が特に強く、母に何度もねだって読んでもらっていた。

「そばにいる」「いつでも会える」。そんなの嘘だって思った

去年、久々にこの絵本を手に取った。祖父が亡くなったからだ。
祖父といっても、私と直接的な血の繋がりは一切ない。しかし母方の祖父と関わりが深いことを理由に、血が繋がっているかのように私たちをずっと大切にしてくれた。
お葬式には行けなかった。大ごとにしたくない、とひっそりすべてが執り行われた後で、初めて訃報を聞いた。

そのころ私は、お世話になっていた上司を突然に亡くしたばかりだった。40代前半で、まだ幼い息子さんがひとりいた。スイミングの送り迎えをしているのだと話していた日のことだった。
転職して間もない私を温かく受け入れ、優しく指導して下さった方だった。チャットに既読がつかないまま「削除済みユーザー」に変わっていくのを、呆然として眺めることしかできなかった。

「でもね、そばにいるよ。いつでも会える」
絵本の中で、みきちゃんはそう言った。
嘘だ。会えないじゃないか。夢で会えたって、思い出せたって、意味なんかないじゃないか。
ちゃんと、会いたいのに。久しく帰省できていなかった間に死んでしまうなんて。まだ話したいことも聞きたいこともたくさんあったのに。
素直に読むことができなくて閉じた絵本を、今になってまた開いてみたのは、祖母に会えたからだった。

亡くなった祖父の妻である祖母に会ったのは、4、5年ぶりだった。予告なく連れていった私の婚約者を見て目を丸くしつつ、自分事のように本当に喜んでくれた。
少し痩せたものの元気そうに笑う祖母に、祖父の存在を感じた気がした。

会えないとため息をつく日も、思い出を抱えて生きていく

「そばにいるよ。いつでも会える」
これは、残された者の勝手な祈りなのかもしれない。改めて絵本を読み返して、そう思った。そばにいると信じたい。いつでも会えると思いたい。
強くあろうとするのも、いまあるものを大切にすることもきっと大事なことだ。
でも、なくしたものばかりを思い出してくよくよするのも、私にはとても大切な時間なのかもしれないと、この絵本で思えた。

亡くなった人やペット、壊されてしまった場所、どこかに忘れてきてしまった宝物。
これまで、数え切れないほどの別れに直面してきた。これからもきっと、これまでとは比べ物にならないほどたくさん、大きなものをなくすのだろう。
どんなに真剣に向き合っていても、後悔は果てしなく続く。どんなに一緒に過ごしても、足りなかったと嘆く。きっと、そういうものなのだ。そうやって、何度だって惜しんで、会いたいと思って、会えないとため息をつく。そうやって嘆いた先にある、なくなったものたちがくれた温かな何かを、思い出として抱えて生きていくしかない。私にとって、それがなくしたものたちと向き合うということなんだと思う。
そして私は今日も、まぶたの裏で会える人たちに恥じない自分でいたいと思うのだ。だれとだって、いつでも会えるのだから。