私たち夫婦は、楽しく生活できる余裕がある。二人だけなら

私たち夫婦は今年で26歳。結婚して3年目。
休日は好きなコーヒーを飲みに行きつけのカフェへ。レイトショーで映画を観て、これまた行きつけのバーへ行くのが最近の2人のブーム。
仕事も順調、2人なら十分に楽しく生活できるだけの給料を貰っている。そう、2人なら。

そもそも、私たちは2人とも子どもが好きだ。街中ですれ違うちいちゃい子には手を振りたいし、泣いている赤ちゃんだって、スーパーで地面に転がっていやいやしている子だって可愛くて笑える。26歳にもなると、子どもがいる友達も少なくはない。インスタ越しの友人と子どもたちは、いつでもキラキラしていて楽しそうだ。

でも実際のところ、それは全て他人事であるからそう思えるだけ。きっと出産に至るまで死に物狂いで、今度は生まれたばかりで自分では何もできない小さい生き物を死なせないように、気を張りながらの育児が待っているのだろう。
めちゃくちゃ大変だ。キラキラのフィルターで透過されていく見えない部分にこそ、きっと子どもを育てることの小さくて、でも大きな喜びや苦労があると思う。私たちにはどれもまだ、本当の意味での理解はできないけれど。

やりたいことがいっぱい。ほかに大事なものを抱える余裕はない

さて、私たち夫婦は揃ってバリスタである。好きを仕事にして5年目、商品開発やトレーナーとしての仕事も増えてきた。毎日目が回るほど忙しくさせてもらえるのは、この時代とても有難いことだ。
しかしながら、1日のほとんどの時間を職場で過ごし、家でも兼業のイラストの仕事や、これから挑戦したいことに悪戦苦闘していると、びっくりするほど時間がない。時間は作るものだというけれど、作った側からどんどん使っていかないと、やりたいことを全くカバーできない。現にこのエッセイも、仕事の休憩時間にちまちまと書いている。

でも、全部私がやりたくてやっていることで、バリスタの仕事だって、念願叶ってやっと、やっと手に入れたものだ。だから私と彼の腕は今の所いっぱいで、後一つ何か大事なものを抱えるには一つ何かを置いておかなければならない。一つで済むかどうかも分からない。
今はまだ、持っているもの以外を選ぶという選択肢も、金銭的な余裕もないのが実情である。

いつかタイミングがきたら。空いた両手で我が子を抱きしめたい

思えば子どもの頃、金銭的な不自由さを感じたことはなかった。読みたい本も、美味しいご飯も、望めばいつでも叶えてもらえた。もっと小さい頃は、おもちゃやレジャー、習い事まで、なんだってやらせてくれた。
けして裕福な家ではなかったけれど、両親が私にそうしてくれたように、いつか出会う自分の子にもそうしてあげたい。殊に本に関しては今までの人生で大いに役立ってきたので、それが漫画であれ活字であれ、いつでも触れられる環境作りをしてあげていたい。
が、何もかも今は全てが現実的じゃない。甘やかしでなく、我慢を強いらなければいけないと分かっていて子どもを持つのは、私にとっては傲慢でしかないからだ。

子どもを持つのは私の人生の中の出来事の一つかもしれないが、生まれた子は自分の人生を生きなければいけない。狭い選択を迫られることもあると知っているからこそ、大いなる責任を負う覚悟のない今の私に、出産なんて到底無理な話。

仕事と近い将来の夢で手一杯の私は、正直子どもを抱いた自分の姿も想像できない。でも、子どもを持たないという選択をしたつもりもない。
子どもが好きな両親に孫を抱いてほしいし、彼に似た可愛い我が子と美味しいコーヒーを飲むのもまた、私の夢だ。
そこにたどり着くには、もう少し時間が必要なのだけど。それまでは、頑張るお母さんとお父さんをちょっと手助けできるような、親愛なる隣人の1人でありたいと思う。

そしていつか、私たち夫婦にも大事な何かを後回しにしても良いと思えるタイミングがきたのなら。その時は、まだ見ぬ貴方を、どうか開いた両手で思い切り抱き締めさせてほしい。
抱えていたものを、何かも放り出してもいいと思えたその時に。