24年ぶりに会った父は、まぎれもなく父だった。
幼少期の家族の記憶。父は悪人だという認識が刷り込まれていった
離婚の直前には2人がよく喧嘩をし、私を連れて家出し、川辺に軽自動車を停め、母と小さく体を折って寝た。
小学校に上がるころ、母の実家で暮らすようになった。
母は、脆い人だった。夜になると外をふらふらと徘徊し、帰ってくると真っ青な顔で無造作に足を投げ出し横になった。
昼は祖母とよく喧嘩をし、手元にあるものを投げつけ合っていた。足元に食器の破片が飛んできたとき、どこからかやってきた兄がそっと私を2階へ連れて行ったのを覚えている。兄たちとは干支一回り歳が離れており、種違いの兄妹だった。
祖母は極端な性格で、言っていることがまるで山の天気のようにコロコロと変わる。
「あんたに言うことじゃないけどさ」と前置きし、父に対する悪口や、反対を押し切って結婚したという母への批判に余念が無い。
母は母で、自らが選んで一緒になったはずの人の憎まれ口を惜しまずたたいた。
「あんたも父さんが嫌いだった」とよく聞かされた。確かにいい思い出はあまりない。
まるでそれが親鳥だと盲信し後ろをついていく雛鳥のように、私には父は悪人だという認識がすりこまれていった。
なぜ別れたのか、何度か母に尋ねたことがある。
だけど何回聞いても、もやもやと霞みがかってしまう。
いま思えばそれは掴みどころのない話だったのだろう。
自分は何者?疑問に感じていたある時、弁護士事務所から届いた封筒
しかし、学年が進級しても家族の中で私だけ苗字が変わらなかった。名前が変わることでまわりから浮かないようにという配慮だったそうだ。
中学生になって、父から面会の申し入れがあった。母の気持ちを尊重してあげたかったし、もう父親のいない生活が当たり前になっていた。
家庭裁判所の弁護士に会いに行き、自分の口で面会を断った。
私は苗字が変わることの無いまま大人になった。
就職で上京し、自分が世帯主になると、苗字の違う母とは親子関係にあることを証明するものが何もなかった。
代理で母のスマートフォンを契約したかったのだが、どうしても書類が必要だという。
本籍のある役所から、戸籍を遡って取り寄せた(それでも書類だけでは証明できなかったが)。
そこには母と父と私と、父の両親、つまり祖父母の名前が記載されていた。父方の祖父母の苗字はどう見ても日本人ではなかった。
自分は何者なのだろうという微かな好奇心と、家族への猜疑心。
ある日仕事から帰ってくると、切手も印もない封筒が投函されていた。弁護士事務所と書いてある。父が親子として面会を希望していると。
しかしすぐには連絡をとらなかった。
ずっとこの世に生きづらさを抱えていた。
母親が私を大事に想っていることはもちろん理解していたが、どこかでなにかを失い、愛が欠けたままのそこはなにものでも埋まることはなく、ただ生きるだけの難しさを知った。
向き合わなければ、ずっと生きづらいままだ。
そう思うと、私は事務所に「急だが明日なら時間がとれる」と電話を入れた。手紙が届いてから2年か3年か経ったあとだった。
1時間にも満たない面会時間。父の話を聞き、残された希望を知った
コロナ対策で透明なパーテーション越しに会った父は、顔のパーツが私とよく似ていた。
色んな感情が入り交じり、私は背筋をピンと伸ばして座っていたが、話してすぐにわかった。この人はまぎれもなく私の親だ。話の進め方や受取り方、思考回路がまるで私だった。
そして父が胸ポケットから出したのは切り取った紙片だった。私が高校生のころに書いた作文が受賞し、掲載されたときの新聞記事である。
この発表会の日、母は見にこなかった。
「あなたに苦労させて申し訳ない」と父は言った。
本当は、母の口から聞きたい言葉だった。
母と離婚した理由、私たちはほとんど夜逃げ同然で家から居なくなったこと、私は何者なのか、父はとてもクリアに話した。
「あなたは望まれて生まれた子なんだよ」
私は危険人物に会う覚悟で来たのだ。
だからこそ知りたくなかった。
その人が悪人ではないことを。
もし嫌な人だったならば、私はこれまでのすべてをその人のせいにして、ただ怒りをぶつけられたのに。
面会は1時間にも満たなかった。帰りの車の中で、送迎してくれた事務所の人が「よかった」と声をかけてくれた。
涙がぼろぼろと止まらなかった。
兄からは「色んなことが知れてよかったね」と言われた。てっきり会ったことを非難されると思っていた。
付き合いの長い親友にこの出来事を話したときには「私の大事な人に、大事に想ってくれる人がいてよかった」と言った。
母には面会したことを言っていない。
私は知っているからだ、彼女がとても弱いことを。
こうやって気を使うのは、私が母を愛しているからにほかならない。
そしてこの憂き世にも、きちんと希望が残されていたのだと、知った。