風邪を引くと祖母が作ってくれたうどん。でも本当に食べたかったのは

中華そばとラーメンは違う。
それに気づいたとき、私は18になっていた。
「ちかちゃん、お風邪の人は食べられへんのよ」
祖母がそう言って私からどんぶりを取り上げたのは、私が4つとか5つとか、そのあたりの年の頃だったろう。その頃私はよく風邪を引いて熱を出した。祖母は、初孫の私の体調をいつも気にかけ、風邪を引いたとあらば近所にある自宅に私を連れていって、仕事だったり、仕事で疲れていたりする父母の代わりに世話を焼いてくれた。

「ちかはすぐお母ちゃんのを欲しがるんやから」
母はそう言って笑い、先程のどんぶりを受け取って、箸で中の麺をつつく。猫舌の母は、何度もふーっふーっと箸にはさまれた麺に息を吹きかけて、ようやっと口に運んだ。

「やっぱり美味しいわ、ママの中華そば」
母は笑って祖母を見やり、「ちかは早ようどんを食べなさい」と、私を急かす。
「ムリに食べんでもええんよ」。祖母は笑って、「リンゴを剥こうか?」と聞いた。
「ちゃうの、うちも中華そばがええのん」
とは、手間のかかった鶏出汁のうどんをこしらえてくれた祖母に向かって言ってはいけないのだ、と幼いながらに思い、私はうどんをすする。

母が熱を出したある日。祖母にやっと「中華そば」をお願いできた私

そうしたことが何度かあった。風邪を引いては祖母の家を訪れて、居間の隣の座敷に布団を敷いてもらって眠れば、昼頃には中華そばの匂いがする。
「ちかちゃんはうどんね」
匂いにつられて起き出してきた私に、祖母はやわらかに微笑んだ。そうして、母がいるときは母が、祖父がいるときは祖父がこれみよがしに私の前で中華そばを食べ、私は「中華そばがええのん」とは言えずに、またうどんをすする。
このときの私に、うどんではなく中華そばを望む理由を合理的に説明することは困難であった。今も難しいかもしれない。

そんなある日、母が熱を出した。大人になった私が、風邪を引いては何となく母を思い出すように、母は祖母を恋しがった。祖母は私と母を自宅に呼んで母を座敷に寝かせ、私には、本を読んだりピアノを弾いたり書写をさせてくれたりした。そのうちに昼になって、祖母は私を居間におき、「ちかちゃんもうどんがええか?」と聞いた。
「ううん!中華そばにする!」
私は、即座に机をならして叫んだ。祖母は、そんな私に莞爾と笑い、「じゃあ、中華そばふたつ買うてくるわ」と家を出ていった。
「やった!やった!」
私は小躍りして、母の枕元で「ママはうどんやで」と囁いたり、戻ってきた祖母に「ちかちゃん!あかんよ!」と叱られたりして、とにかく嬉しくて机にかじりつきながらその時を待った。

祖母を愛し、祖母に愛された記憶を中華そばが担い続けてくれている

あの夢にまで見た黄金のスープ、赤絵風のどんぶり、細い中華麺が私の前にある……。あのときの恍惚は忘れることができない。喉を通る異国の味、香ばしいカツオの匂い、祖母の中華そばはどこまでも美味で、期待を1寸も裏切らない味をしていた。
起き出してきた気だるげな母は、「うどんもええよね」と呟いてうどんをすすった。私がそんな母をみて「へへっ」と笑うと、心底不思議そうな顔をしながら「ちかはええ子にしてた?」と聞く。

「ええ子やったよ」と祖母はまたニコニコとしながら応え、私はそんな2人の間でどんぶりを抱えて幸福だった。
祖母は、それから10年もしないうちに癌で亡くなり、私は祖母の味を何一つ受け継ぐことなく大人になってしまった。中華そばとラーメンは違う。そんな簡単なことも飲み込めないまま、未だに祖母の味を期待してラーメン屋の暖簾をくぐる私は愚かなのかもしれない。祖母を愛した記憶、祖母に愛された記憶の保管という役を、中華そばはいつまでも担い続けている。