ミレニアム世代の私は、一個上のロストジェネレーションと呼ばれる人たちと話すのがとても好きだ。彼らが耐えてきたこと、問題視してくれたことの恩恵を受けて次の世代の私たちがあるため、感謝の念も感じる。
この世代の人たちの就職期はいわゆる超氷河期。教育分野でも、詰め込み教育の反省対象として扱われるだけで、変化を感じることができなかった人たちでもある。
まさに「ロスト」という名に相応しい、失ったものが多い世代である。

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私は高校時代の淡い恋愛を除けば、常にこの世代の人たちと親しくさせてもらった。ただ大人なだけではなく、明らかに私たち世代にはないものを持っている。

例えば大学生の時に出会った彼は、言葉の端々に世間を俯瞰しているような表現を残す特徴があった。
悪く言えば信頼していないような、自分はそこに属していないと言わんばかり。よく言えば、自分一人で生き抜いてやるという強さがあった。
ミレニアム世代のような、流動的かつ草食な面は少ないように感じる。

今、仲良くさせてもらっている人もロスジェネ世代であり、妙な色気を感じる。どこかアンニュイで、私たちの世代が養うことはできないような、無関心なようで確固たる意志の強さがある。世代は20年程で変わると言われているが、このアンニュイさを身につけられない自分の世代が疎まれるほどだ。

そんな感想を上の世代に持っていた訳だが、この世代に関連するひどく印象的だった出来事がある。それは教育に関する話。
私は個人的に教育の力を信じている。社会人になって学校教育機関との関係が薄くなった後でも、生涯学習という言葉通り、仕事以外の分野でも教育を続けることを大切にしている。
それが趣味のフランス語、読書でもなんでも良い。大学が社会人向けに行っているプログラムに参加するしないではなく、自分のやれる範囲で続ければいいと思っている。

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この話をロスジェネ世代の職場の先輩にした時に、こう言われた。
「要は学歴が大切ってことね」
主旨が伝わっていないことが直ぐに分かったので、その場で訂正をしたが、どうも上手く届いていない。どこか「教育=学歴」の方程式がその先輩の頭の中にはあるようだった。

その出来事の後、先輩や先輩の同世代の人の言動を思い返した。
確かに、新しく入社してくる人がどこの大学を出ているのかと、学歴を気にする会話は多かったように感じる。それが立派なアイデンティティであり、大学卒業までの教育が一生の教育で、そこまでで得たものがその人の能力の全てであるような雰囲気だった。

この現象を、経済学用語で「シグナリング・モデル」と呼ぶことを最近知った。
能力が高いがゆえに、いわゆる「有名大学」に入ることができるという考え。そのため、大学名を企業側も採用する際の一つの目安にできるということ。
私は高校を卒業した後に短大に進学した。その8年後の今は大学院に在籍しているが、学歴を考えて動いたことは全くない。学びたいものが教育機関に所属することでアクセスしやすくなる、その理由で編入や進学を重ねた。

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確かに、就活をしている時に大学名が足切りになっていることはよく耳にした。でも、そんな企業はこっちから願い下げと思えたし、ベンチャーだって中小企業だって魅力的な選択肢だと思えた。
ただ、ロスジェネ世代の人が高学歴にこだわるのは、まさしく就活で苦労したからだと理解もできる。ただでさえ狭い求人枠に、「有名大学」出身の人と一緒に応募する。そこで自分の履歴書は見劣りしているのではないかと心配になったのだろう。その結果、今でもその考えを保持しているのは自然なことだ。

だからこそ、その前提を踏まえた上で、あえて問いたい。

学歴ってそんなに大事ですか。勉強=学歴なのですか。死ぬまで学歴にこだわって、そしてそれは大方変えることができなくて、それでも優劣を感じて生きていくのですか。
勉強が狭義過ぎては、出会えたはずの世界、そして自分を無視してしまうことになる。学歴は変えられなくても、今の自分は同じ勉強によって変えることができると考えてほしいと思っています。
その持ち前のアンニュイな雰囲気で「休日はフランス語勉強している」……最高にかっこよくないですか。