「大学どこなの?」
そう聞かれることを私は、女性として、ずっと恐れている。

小さいころから運動や遊びと同じくらい、勉強も好きだった。新しいことを知って世界が拓けることにわくわくしていた。そうして受験勉強をがんばって、最高学府と呼ばれる大学に進学した。やりきった達成感はとても大きくて、自分自身が誇らしかった。

ところが大学に通い始めて気がついた。
そこに女性は約20%、5人に1人しかいなかった。

「性別と学歴は関係ない」という言葉は宙に浮いて見えた

そういえば、女に学歴はいらない、って言う人がいるよな。
ネットで検索すると、結婚できるのか、就職で有利なのか不利なのか、勉強はできても仕事では使えない人への愚痴、才色兼備で外れ値みたいな卒業生のハナシ、そんな私の頭の中を侵食し始めていた性別と学歴のステレオタイプを固めに来るような(私にとって)意地悪な記事がたくさん並んでいた。その大多数のなかで、「性別と学歴は関係ない」という言葉は宙に浮いて見えた。

そこからは“逆学歴コンプレックス”まっしぐら。知らず知らずのうちに、自分の大学名を言うことを恐れるようになった。バイト先、イベント、就職活動など新しい人に出会う場所で、「大学どこなの?」という会話になるのが嫌で嫌でしょうがなかった。

「自分とは違う」と一線を引くニュアンスを勝手に感じてしまう

それでも私は「東大です」って答えていた。
その場限りの関係性の人となら、大学名は嘘をつくという友人もいる。でも私は人として受け入れてほしいから嘘はつきたくないし学歴なんて気にしないでほしい、と相手に期待したい思いと、自分を下げて見せることはしたくないというプライドが混ざって、いつも嘘はつけなかった。

そんなとき大抵は「え!すごいね~」と返されるから、その答えの本心を探ってしまう。「すごい」の裏側にある「自分とは違う」と一線を引くニュアンスを勝手に感じてしまうから。たとえ相手がそういう気持ちなく純粋に褒めてくれていたとしても、もう習性としてそのニュアンスを勝手に自分がつくりあげて、嫌な気持ちになる。
あるいは、「あ、そうなんだ」と流されると、学歴は気にしていないということだから私も流せばいいのに、この人はどういう風にとったんだろうと勘ぐってしまう。我ながらめんどくさいやつだ。

女性と学歴のステレオタイプを嫌っているけれど

「すごいって本心で言ってるよ」「そもそも気にする事ないじゃん」そういう人の意見をなんとも受け入れられないのは、私の特性だ。
大学名で嘘をつける人や、この会話が気にならない人は、精神的にタフか、学歴や平たく言えば“頭の良さ”と言えそうな学歴に紐づいた個性によりかからずとも、コミュニケーション能力、容姿、趣味や特技などなど、何かのアイデンティティで自分を表せるということだと思う。私の場合は、そんなふうに人として評価されたいと思いながらも、学歴にある程度のリスペクトがあること、そのうえで学歴を気にしないこと、の全てを人に求めてしまうのだ。

実際に学歴で一線を引かれたり、「学歴の高い女性はちょっと」と言われることがそれほど多いわけではない。それでも、大学名を言うか迷い、でもちゃんと誇りたいと思い、そして相手の反応を探ってしまう。女性と学歴のステレオタイプを誰よりも嫌いながら、それに自分からはまりにいっている滑稽さに腹が立った。

矛盾に葛藤しなくていいように、目をつむっているだけなのでは

女性の学歴を気にするような社会では、もうないのかもしれない。

でもここでふと考えてしまう。
「女性と学歴」がもはや本当に関係のない社会だとしたら、なぜ大学進学率に男女で6%もの差が出るのか。なぜ偏差値が高い大学ほど、男女比に開きが大きいのか。
結局男女限らず社会には口先だけの人がたくさんいるってことだ。女性の活躍や性別によらない生き方に口では賛同しつつ、友達に、会社の同僚に、自分の子どもに、女性の逆学歴コンプレックスを植え付けているんじゃないのか。なんとなれば、その矛盾にうっすら気づいているけど、でもそれが、社会の仕組みなんだからしょうがないくらいに思って正当化しているんじゃないのか。矛盾に葛藤しなくていいように、目をつむっているだけなんじゃないのか。

矛盾している社会で、私は矛盾も葛藤も抱えて生きていく。
「大学どこなの?」の問いをうまくやり過ごしてステレオタイプを1人で克服することじゃなく、学歴という十字架を背負ってもがくことが、私の戦い方だと思うから。