「もっと幅広の二重に整形しようかな~」
私の目の前で友人が言った。
"一重"の私の目の前で。

コンプレックスはどんな人にもあるらしい。
どんなに綺麗と称される人でも、自分の身体に文句があるとか。
私からしたら、そんなの贅沢な悩みだよ、な話だ。
幅広の二重にしたい友人だって、なにも私に嫌味を言ったわけじゃない。
彼女の本心なのだ。

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一重、鮫肌、にきび、デブ、ブス、太い足、お腹まわりの肉、二の腕、身長、足のサイズ、全体的に大きな印象、下膨れ、平安貴族顔……今書き出せる私のコンプレックスの数々。
「"自分"とは、他人が作るものである」
どっかの哲学者だか誰だかが言っていた。
私は昔から他人に見た目のことを言われてきた。家族からも。罵るとかじゃなくて、ただの戯れのつもりだったのだろう。
大人になった今でも、その時の後遺症は残っている。

背の順でうしろの方にいることが誇らしかった幼稚園児時代。
あの頃が1番、自信に満ち溢れていたのかもしれない。
男子にからかわれることがあっても、特に気にしていなかった。
と言っても、そこまで鮮明な記憶はない。
教室で「まてー!」と言いながらおいかけっこしてた映像が頭に残っていて、たぶん何か言われての行動だったのかな、とたまに思い出す。

小学生になると、よりはっきりとした言葉でからかわれはじめた。
それでも2年生の頃までは「うるさいなー!」と反論していた。
しかしこの頃から、自分でもわからない奥深くのところで傷ついていたのかもしれない。
私は全く記憶にない話を、あるとき母から聞いた。

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それは2年生の夏に行った海での写真を見返していたときのこと。
私は、そこに映る私を見て驚いた。
とても痩せていたのだ。
そのことを母に言うと、
「なんだかその頃、あまり食べなくなったんだよね」
と告げられた。
全く記憶にない。
何かを意識して"痩せなきゃ"と思っていたのだろうか。

小学校高学年。
身体の変化の都合なのか、上腕全体にプツプツができた。
今でこそ市販の塗り薬が出るほど、それなりの人が悩んでいるものという認識になったが、当時は物珍しかったのだろう。
プールの時間、ある女子にいきなり、
「これ、鮫肌?」
と嘲笑された。

それまでも、彼女は私の容姿をバカにするような言い回しでわざわざ私に言ってきていた。
足が太いことをジェスチャーでやってみせたり、靴のサイズをわざわざ聞いてきたり。
他の男子からは、お腹をぽんぽんする仕草をするように急に言われ、
「あーあ、また食べ過ぎちゃったな」
と力士風のアテレコをされたこともあった。

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太ってることと背が高いことで、より大きく見られていた、ような気がしていた。
それが嫌で、少しでも小さく見えるように私は猫背になった。
自分に自信が持てず、声も小さくなった。
今でも残っている"後遺症"だ。

中学でも似たようなことがあったり、高校生の頃は見知らぬ人に嘲笑われることがあった。
どれもこれもごく一部の人間の言葉。
そんなのをなぜここまでキャッチしてしまうんだろう。

友人にいわゆる顔面偏差値が高い子がいて、彼女自身もかわいい子に目がない。
私のことをブスと思っていなくとも、かわいいとは言わない。
かわいい子をみて、かわいいと言う。
私に何も関係してないはずなのに、胸がズキッとする。
私は彼女を親友と思っている。しかし正直なところ、隣を歩きたくない。
比較されるから。他人に。

世界的に、体型や肌の色などで人を見てはいけません、というような風向きになっている。
これが私が今、生きやすいなと思える要因。
なんなら、ぱっちり二重で鼻の高いどこかの国の方が「一重で控えめな鼻、めっちゃクール!」などと憧れを抱いている風景を見たことがある。
信じられない。私はあなたのようになりたいのに。
そんな風潮をいいように利用して、つい自堕落でいろいろと怠っていることの言い訳にしている。

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外見に囚われすぎて、内面までも残念になってしまった。
綺麗は内側から、というのもあながち嘘じゃないのかもしれない。

私は自分の容姿が嫌いだ。
中身も、嫌い。
そんな私でも自分の身体のなかで好きな部位がある。
最後は少し朗らかな気持ちで読み終えていただきたいので、興味があるない関係無しに聞いてください。

私が好きな私の一部。
それは、耳の形と拳のごつごつ。
何も特別じゃないけど、なんだか好き。
自分のことが嫌いな私だけど、ほんとはちょっと好きなのかな。