ありがとうを伝えたい人は沢山いる。顔の見える人は当然のこと、顔の分からない人にもありがとうを伝えたい人だ。
自分がこの場所に立っている事実をみると、脈々と受け継がれてきた私の遺伝子の大きさに驚く。これは、皆そうだろう。

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父母を通り、祖母祖父を通り、木の枝のように広がった先に私がいる。木の枝の私たちは新芽を伸ばしたり、ときには折れたりしながら大きくなっていく。
私たちが木の枝だとすれば、大きな幹の部分にはどんな人がいるのだろうか。元を辿っていくと、どんな人に巡り会うことができるのだろうか。

そんな私の小さな疑問を解決するため、お仏壇の小さな棚にしまわれている、過去帳(亡くなった方の戒名が書かれているもの)を引っ張り出して、歴史を辿ってみることにした。
劣化で色褪せてしまった過去帳をパラパラとめくる。その瞬間は、タイムスリップしたような、今ではない時を生きているときのようだった。

過去帳には亡くなった日と戒名が書かれている。私が思い出す限り、顔が浮かぶ亡くなった人は数人。それ以外の方々は私が出会ったことのない人だ。ご先祖さまはどんな顔をしているのだろうと考えてみるのも、また楽しい。
過去帳の名前を見る限り、ご先祖さまの中には子供もいた。それは、不思議と「私は一人ではないのだ」と思わせてくれる時間でもあった。

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自分自身が見つからなければ、歴史を辿るとよいと私は思っている。家系の歴史、暮らしている地域の歴史、そして日本の歴史。なぜなら、現在地が理解できるから。
近頃、自分のやりたいことを見つける生き方や、自分について知る方法などの本が多く出回っている。「〇〇のような姿になる!」などの目標だけが一人歩きして、肝心な自分がついていけないことが多い。

自分は探さないといけないものなのだろうか。夢を持った方がよいとされるのはなぜだろうか。キラキラしたものが表面に浮かんでしまい、裏面の大変な部分から目を背けてしまいがちだから、簡単に諦めてしまう人が増えているのかもしれない。

そして、個性を見つけた方がいいと言われている現代で、個性がわからないといる人も多くいる。きっと、代々受け継がれてきた遺伝子こそ個性で、他者との大きな違いなのでないだろうか。私は思う。

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「ありがとうをあの人へ」というテーマを聞いて、真っ先に頭に浮かんだのは、家族でもなく友達でもなく、私の「ご先祖」という存在だった。
枝である私たちは、これから新たに枝を伸ばして大きな幹になっていくのだろうか。
もしかすると、先祖である私が幹だと思っていた方々も、幹ではなく大きな木の枝なのかもしれない。

見えるもの、見えないものの力によって私たちは、生きている。
赤の他人と思っていた隣の人はもしかすると、同じ幹から伸びてきた枝なのかもしれない。
枝同士は競い合うことはしない。互いに生存することができるよう、道を譲り合って、ぶつからないよう枝を伸ばし合って生きていく。私たちの未来も、枝のようにぶつかることなくあるのだろうか。

ありがとう、私を産んでくれた両親。
ありがとう、両親を産んでくれた祖父祖母。
さらにその先の大きなご先祖さまへ。

これからも、私は現代を生きていく。