愛されるだけが、母校ではない。
私が住んでいた鹿児島の春は遅く、そして短い。
高校の卒業式のその日、桜は確かそこまで咲いていなかった。陽気だけはさすが南国という天候だったと記憶しているが、正直深くは覚えていない。
3年間過ごした学舎から巣立つ時。それまでの人生で一番濃い時間を過ごしたその場所から旅立つその日、私は、一滴も涙をこぼさなかった。

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私は母校を恨んでいた。
入学直後から学校が嫌いになり、2年生までは部活を目的になんとか足を運び続け、そして3年生では教室に通うことを拒否した。3年生の1年間は、ほとんど教室にいなかった。
大変申し訳ない話なのだが、3年生のクラスメイトについては半分くらいしか顔と名前が一致していない。覚えていない半分については、今街で急に声をかけられたって、きっと全く思い出せないだろう。

私が通っていた学校は、全国でも有名なスパルタ進学校だった。起きている時間の全てを勉強に注ぎ込み、全国の名だたる学校のライバルたちと鎬を削り続けることが当たり前。入学直後から、その厳しさを突きつけられ、今まで人生を舐めていたとわずか15歳で思い知らされたくらいだ。
膨大な宿題を真面目にこなそうとして、体調を壊した。どれだけ睡眠時間を削って勉強しても、試験の成績は全くと言って良いほど奮わなかった。テストの順位はいつも下から数えた方が早かった。授業にもあっという間についていけなくなり、惨めな思いをし続けた3年間だった。
どんな努力も報われず、あんなに必死に受験勉強をして入学した学校だったはずなのに、私はすぐにこの学校を選んだことを後悔した。

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卒業式は安心感と開放感で満ち満ちていた。中途退学せず無事に卒業しきることができほっと胸を撫で下ろし、ようやくこの地獄の時間が終わったのだと心から嬉しく思った。
悲しみと感動の涙なんて、流れるはずもなかったのだ。

私は母校を恨んでいた。それは今も変わらない。
卒業して、大学でさまざまなことを経験して、社会人になった。社会の厳しさも、難しさも、人生の奥深さも、少しずつ味わい、悩み、乗り越えるようになっていた。
卒業して今年で6年になる。不思議なことに、私は母校を恨むと同時に、心から感謝していた。
二度とあんな気持ちを味わいたくはないと思う。しかし同時に、16~18歳という年齢の時に、あの経験ができてよかったと今になって思うのだ。

努力はいつも報われるとは限らない、だからどれだけしたって足りない。
報われなかったとしても、結果を導き出す創意工夫や精神力でなんらかの学びを得て次に繋げることが大切である。
自分より才能がある人も、自分より数倍努力をしている。弱音も甘えも吐いている場合ではない。
人生計画通りうまくいくことなんて少ない。だから常に考え動き修正し続けよ。

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全て、あの厳しい3年間が教えてくれたことだった。
楽しい時間や輝かしい思い出に満ち満ちて、愛され好かれる母校も良いと思う。そんな母校の方が多いかもしれない。
私の母校はそうではない。私はあの場所に、そんなに楽しい思い出はない。
それでも確実に、私を育て、成長させてくれた場所だった。心から感謝している。

涙が流れる卒業式だけが美談な訳ではきっとないだろう。私は泣かなかった。
しかし、あの時間がどれだけ貴重で美しかったか、それを今ひしひしと噛み締めている。