私にとっての思い出の一着は、中学校で3年間着用していた制服である。

「リボンは付いてないのね」と言われてから、気付けば7年経っていた

サイズ採寸は児童養護施設の職員さんと一緒に制服屋さんでしてもらった。
私の通っていた学校の制服のデザインは、真っ白な大きな襟にリボンやボータイ付いていないセーラー服で、正直好みじゃない。当時は周りの子と比べて身長も低く、小柄だった為、入学前は、少し袖が長くて大きいくらいだった。

担当の職員さんに出来上がった制服を一緒に見て、「あれ?リボンは付いていないのね」と会話を交わして、思い返してみれば、もう7年の月日が経っていた。とにかく中学校の三年間の生活は、嬉しいこと、悲しいこと、辛いこと、イライラすることも沢山あった。
何を隠そう、私は自閉スペクトラム症というという発達障害があり、また母親も当時、シングルマザー10年目。5才の時に離婚をし、3つ離れた妹と私の三人での生活が始まった。

そして、妹が食物アレルギーの為に車で通院先へ行く途中に事故に遭い、その日の夜に亡くなり、帰らぬ人となった。
その後しばらくは近くに住んでいた祖父母の家で生活し、妹と一緒に暮らしていた築80年の借家で生活をしていたものの、私が小学4年生の頃から自然と食欲が湧かなくなり、次第に体が自分の思うように動かず、不登校となってしまった。

それを心配した母親は病院を探し、月に1回程度の通院をするも状態は良くならず、児童精神科へ保護入院することとなった。主治医や担当の職員さんのケアやサポートもあり、病院併設の特別支援学校にも通えるようになり、大好きだった趣味を再び楽しめるようになった。

当時は想像できなかった、新しい環境での、濃い3年の学校生活

しかし、その後の生活は地元の中学校へ自力で通えるかとなると、不安が募った為、退院後は、主治医からの勧めで児童養護施設へ入所することとなった。
施設には、発達障害を持っている子や、親から虐待を受けてご飯も充分に食べられず、ガリガリに痩せていた子など、いわゆる家庭環境が良くなく、地元の家で生活するのが難しい子が集まった場所だった。

自動的にこちらの施設にも併設された特別支援学校の中学校へ通うこととなった。新たに違った慣れない環境での生活、そして制服と共に3年間の濃い時間を歩むとは、当時は想像もしていなかった。

私の入所した中学1年生の時は同じクラスに同姓の子が1人もおらず、女子は私だけ。
それに加えて、女性教師は国語の先生だけという環境下。ただでさえ人見知りが激しく、新しい場所へ慣れるのが普通の人に比べてとてつもなく時間が掛かる。

さらに、異性に対する不安感が強かった。シンプルに分かりやすく言えば、授業で発言するのも得意ではなく、例えたら大人しくて、ギリギリまで我慢してしまう辛抱強い性格。
入学当初から、先輩、後輩、同級生を問わず、悪口を浴びる毎日だった。

施設の担当職員さんや学校の担任などに伝えるべきだったのだろうが、それが私には出来なかった。なぜなら、その事実を伝えたら、施設や学校内で情報が共有され「お前、チクっただろ」などと、嫌がらせがどんどんエスカレートしていくだろうと考えていたからだ。
とはいえ、施設の規則上は少し体調が悪かろうが、イライラしていて行きたくなかったとしても半ば強制的に登校せざるを得なかった。

制服は私にとって相棒のようなもの。五感全てで思い出を刻んでいった

小学生の時には着たことのない、少しサイズの大きなセーラー服を身にまといながらも、入学前は、晴れ晴れとした楽しい中学校生活が待っていると心から待ちわびていたが、現実は想像以上に厳しかった。当時は様々な葛藤が心の中で飛び交う日々だった。
入学式は少人数で行ったが、さっぱり記憶にない。

二つ上で精神科病院でも同じ部屋で過ごしたことのある先輩の女の子が、かろうじて同じタイミングで入所してきた。
しかし、中学1年の時はとにかく男の子の人数が圧倒的に多く、学校では誰も味方がいない。施設に併設された特別支援学校なので、何かトラブルがあれば施設の職員に共有される案も複数私は見てきた。

特別好みではなかった制服も、卒業式が近づくにつれて、なんだか名残惜しくなってきた。
なぜなら、中学校を卒業したら施設から退所して、仲良くなった仲間とも会えなくなってしまうから。一緒に悩んだり、葛藤したり、泣いたり、笑ったり。制服とは私にとっては相棒のようなもので、五感全てで様々な感情や思い出を共に刻んでいった。

最初は全く想像とは別のデザインだったが、高校生に関東へ引っ越しする際に物の分別をしなければならなかった。ギリギリまで悩んだ末、手放すこととなったが、普通の学生とは違った経験であることは間違いない。