幼い頃から「がんばりやさんだね」と言われて育った。年々自分への厳しさに拍車がかかり、気がつけば向上心の塊のような人間になっていた。
5歳の成功体験。それから努力は報われるという信念を強固にした
私が結果を追求するようになったきっかけは、5歳まで遡る。
体を動かすのが大好きで、二重跳びの練習をしていた時のこと。初めての動作なのでコツを掴むのに苦労したが、暇さえあれば自宅の前で練習をしていた。
正直なところ、縄を回し、跳ぶだけの単純作業に飽き飽きした瞬間もあった。それでも、来る日も来る日も練習を重ねた。そしてある日、ついにできるようになったのである。
嬉々として自宅にいた祖父を呼びに行き、跳んで見せた。祖父は「ともは、運動神経がいいんだなあ」と噛みしめるように言った。
祖父は、逆立ちで校庭を何周もできてしまうような抜群の運動能力の持ち主である。そんな祖父に褒められて、飛び跳ねたくなるほどうれしかった。全身が、心地のよい疲労感と爽やかな達成感に包まれていた。
この成功体験を皮切りに、陸上や剣道、作文、書道など様々なことに挑戦し、努力は報われるのだという信念をより確固たるものにしていった。苦労と喜びを繰り返すうちに、自分に厳しくすることが習慣となり、その影響は価値観や性格にまで及んだ。
部活を辞めて勉強。目標通り模試で1位になったけれど
高校生になると、大学受験に挑戦した。田舎に住んでいたので、中学校は受験せずに入学し、初めての試験では学年1位を取った。高校も地域の進学校ではあったが倍率は低く、特段の苦労はせずに入学できた。そのため、大学受験が初めての全国区での挑戦であった。
入学して以来、最初は順調だった成績が右肩下がりに落ちていった。それも、かなりの急勾配である。高校1年生の終わりに、思い切って部活を辞める決断をした。その後は、毎日時間の許す限り勉強した。
当面の目標は、模擬試験で学校内の文系1位を取ることであった。成績が伸びないかもしれないという不安を抱えながら勉強を続けること3か月余り。目標通り1位になった。
だが、「なってしまった」と感じた。私の実感では、まだ知識に多くの穴があるし、以前と比べてさして頭が良くなったという感覚もなかった。そして何より、全国順位では上に何万人もの人がいて、志望校の判定も芳しくなかった。だから、まだ1位は取れてほしくなかった。
これから、周囲に切磋琢磨できる仲間もおらず、時間に追われながら道なき道を進んでいかなければならないのかと思ったら、途方に暮れてしまった。その上、傲慢だと指摘されるのが怖くて、この悩みを誰にも打ち明けることができなかった。
母の涙を見て、ずっと見守ってくれていたことに気がついた
次の模試では、疲労やストレスにより、まとまった文章を読み解くことができなくなってしまって、一教科目の途中で受験を辞退せざるを得なかった。
この時には既に勉強に対する情熱を失っていて、勉強は幸せになるための絶対条件ではないはずのに、どうしこんなにボロボロになるまでやらなくてはならないんだろうなどと考えていた。
帰宅すると、事態を知った母は「ともは、今までこんなに頑張ってきたのに」と眼を赤くしていた。今にも涙がこぼれ落ちそうだった。私が積み重ねてきた努力が、この一回の辞退のせいで水の泡になってしまうことをつらく感じてくれているようだった。
私は、母に泣かれると思っていなかったので内心戸惑っていた。母は日頃、「追い込み過ぎずにね」とは言うものの、「勉強しなさい」や「成績はどうなの?」などと口を出してくることは一度もなかったので、私が勉強を頑張っていることに対して淡々と捉えているのかなと感じていた。
だから、涙と共に母の気持ちを知った時、余計なことは言わずにずっと見守っていてくれていたんだなと初めて気がついた。その瞬間、私はもうひとりではなくなっていた。
長いこと、ひとり険しい山道を登っていると勘違いしていた。だが実際には、母が私の背中を愛情深く包み込んでくれていて、苦しい時にはもたれかかっても大丈夫だったのだ。悩みを抱え込みがちで「助けて」と口に出すことはできなかったけれど、母は私を助けてくれて、私は母を精神的に頼ることができた。
それからというもの、ひとりで勉強に励んでいる時でも、母の存在が心の支えとなった。
冬、無事志望校に合格した私は、母と抱き合って喜んだ。