大学1年生の時、アルバイト先の女将さんに泣かされた。
泣かされた、という言葉は一方的に相手が悪いみたいな言い方だけど、言葉の通り、泣かされたのである。
私を泣かせることを目的とした会話は初めの体験だったから、今でも忘れられない。

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ことの発端は、私がアルバイトを辞めると申し出たことだった。
女将さんにSMSで事前に時間が欲しいと伝えていたが、連日時間を取ってもらえず、退職を希望していた時期に差し掛かった頃、女将さんがやっと話を聞いてくれることになった。
私は退職の意思と、希望は出したがお店側の都合に合わせて退職時期を調整していきたい、という旨の話をしたのを覚えている。

多くの人が経験するであろう、バイトを辞める時の気まずくて緊張感のある時間だった。大将や他のアルバイトのメンバーは裏で片付けの作業をしていて、店内は静まり返っていた。
私が話し終えると、最初は静かだった女将さんに、最終的に店が壊れるんじゃないかくらい怒鳴られたことを覚えている。
もう何年も前なので何を言われたかよく覚えてはいないが、SMSの事前連絡やシフトが重なるたびに閉店後に時間が欲しいとお願いしていたことも「私は何も聞いてない、知らない」の一点張りで無かったことになっていた。

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その時本当に不思議だったのが、私が思わず涙をこぼすと女将さんが怒鳴るのを止めて、勝ち誇った顔をした。まるで私が泣くのがゴールだったかのように、怒鳴り声が止んだのだ。
ふとその時、バイトリーダーの若い女性が、何度かクロークから泣き腫らした目で出てきたのを何度か見たことを思い出した。
本当におかしな話だけど、この人はもしかしたら、何かしらの理由で、他人を泣かせたいのかもしれない、と思った。
その後、慌てて大将が駆けつけてきて、泣きたくはないのに止められなくて、その場で事情もまともに話せないまま帰らされた。
帰る時も、「泣けばいいと思ってんじゃないよ」みたいなことを女将さんが言っていたのも覚えている。

その後大将にはLINEで事情を説明し、後日アルバイトを辞めるためのサインをしにバイト先に向かうと、女将さんはお客さんの前に出る用の着物ではなく、厨房用の割烹着でお皿を洗っていた。
大将は、「他の子もあんな風にされてたみたいだね、知らなかった」と頭を抱えていて、ホール担当の従業員を少し見直そうと思う、と言っていたのを覚えている。
私は一人一人に「お世話になりました」と挨拶をし、女将さんにも頭を下げた。先日のこともあって、気を抜いたら泣き出してしまいそうだったけど、私はぐっと堪えて、泣かなかった。

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女将さんは私に目もくれず、何も聞こえないふりでお皿を洗い続けていた。
それ以来そのお寿司屋さんには行ってないし、女将さんが今どうしてるのかももちろん知らない。
でも、あの時バイト先に言って、ちゃんと女将さんにも最後の挨拶を言えたこと、頭を下げたこと、本当にやれてよかったと思っているし、泣かなかった自分に感謝している。

人は感情が昂って泣いてしまうと、本当に言いたいことが言えなくなってしまうし、言えたとしてもまともに取り合ってもらえないこともある。
人に怒鳴られて泣いてしまうくらい繊細だった私には、初めての出来事で、仕方なかったかもしれないけど、学びを得た今は、そう思う。
悲しい時は泣くべきだし、苦しい時は泣くべきで、涙は我慢すべきじゃないと思う反面、何か伝えたいことがある時は、ぐっと堪えて、伝えることに専念すべきだということを学んだ経験だった。

これからもここぞという場面で泣きたくなることはあるだろう。
その時々で、涙をぐっと堪えられた後は、一人になった時や信頼できる人の前で大声で泣ける私でいたい。