9月10日は、忘れられない記念日である。
私だけの、というと語弊があるかもしれないけれど、大好きな母方の祖母の命日なのである。
それでも私だけの、と言いたいのには、こんな訳がある。

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大好きな祖母だった。ここにも別のエッセイ(「いつも味方でいてくれた優しい祖母の苦しみに、私は気付けなかった」)を掲載していただいたのだけれど、身も心も美しくて、世界で一番尊敬しているひと。唯一私に家族としての愛をくれたひと。
そんな尊いひとを、夏の終わりに喪った。

祖母の体調が優れなくなったのが、私が高校3年の春(本当はもっと前からだったのかもしれない)、隣の県の大きな病院に入院したのが夏の始まりで、週末ごとに会いに行った。

全身に転移した癌のせいで痛くてつらいはずなのに、病院のベッドで一回り小さくなった祖母は、私のおしゃべりを聞いて、沢山沢山付き合ってくれた。比較的調子の良い時は、車椅子を押しながら、病院内の花々が綺麗な中庭を散歩したりもしていた。愛おしい思い出。

そのとき私は目下大学受験の勉強中で、祖母は、
「いおちゃんが大学生になるの見たいなぁ」
「いおちゃんは頭ええから絶対受かるで」
と、会いに行く度励ましてくれた。そのお陰で、受験勉強なんて全然つらくなかった。むしろ、祖母をいつ喪うのかの方がつらかったし怖かった。

「私、絶対行きたい大学行くから、おばあちゃん入学式来てな、卒業式もやで。それまでに元気になってな」
と言いながらも、心のどこかでそれが叶わない夢であることはわかっていた。
少なくとも、祖母が遠く離れた大学の入学式に来ることは、かなり無理のあることである。

でも祖母がまさか、こんなに早くいなくなるとは思ってもいなかった。合格発表を一緒に待って、一緒に喜び合えると思っていた。

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9月に入って、祖母の容態が急変した。ナース室のすぐ隣のICUに移って、意識はいつも朦朧としていた。たまに意識が戻ったときは、私の手を握ってにっこりと笑って、
「いおちゃん。今日も来てくれてありがとうね」
と言ってくれた。その笑みを見る度に泣きそうになったけれど、強く手を握り返して私も笑った。

祖母が可愛いと言ってくれた私のまま記憶に残りたくて、どんなに悲しくても笑っていた。楽しいことばかり話したし、話を盛ったりときには作り話もして、祖母が笑って少しでも苦しみが和らいでくれることだけを祈っていた。

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9月の10日。会いに行って、お話をして、夕方の帰り道、私が大学に合格したという通知が来た。しかも特待生という待遇である。嬉しくなって、来週すぐ祖母に話そう、と思ったら、母の携帯に病院から着信があった。「心臓が止まった、マッサージでまた動き出したけれどもういつ止まるか分からない」という内容だった。即座に引き返して、祖母のところに走った。

もう意識はなかった。浅く小さな呼吸をゆっくりゆっくり繰り返しながら、祖母はいた。看護師さんが、
「最後まで耳は聞こえるから、話しかけてあげてくださいね」
と言ってくださったから、私は泣きながら、
「おばあちゃん、私大学合格したで、特待生やで」
と伝えた。

奇しくもそのとき祖母の目が開いて、ゆっくりと口元が綻んだ。
「さすがやわ」
と、か細い声が聞こえて、とても綺麗に祖母は笑った。最後まで、本当に本当に綺麗な笑みだった。すぐにまた祖母の目は閉じてしまったけれど、
「ありがとう、私1番になるから。4年間ずっと1番でおるからね。おばあちゃん元気になってや」
と言ったところで2人の看護師さんがやってきて、祖母の逝去を知らされた。

病室にいたみんながみんな、泣いていた。私も泣きながら、絶対祖母への誓いを守ろうと決意した。
絶対、4年間、大学の首席で居続けてやる。何がなんでも私が1番研究対象について詳しい人間になる。

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その誓い通り、私は4年間ずっと首席の成績を守り通し、卒業した。
入学式にも卒業式にも祖母の姿は無かったけれど、私は信じている。祖母はずっと私と共にいてくれた。どんなときでも寄り添っていてくれた。だから今の私がある。

今年も9月10日がやってきた。祖母の墓前に花を添え、「私これからも頑張るで。おばあちゃんも一緒におってな」と心の中で話しかける。
大丈夫。私は祖母の孫だから。今の私があるのは、祖母のおかげだ。