中学一年生の夏、一緒に死ぬ約束をした友達がいた。
「もしも死にたくなったら、手繋いで二人で死のうよ」
校舎の3階の廊下の窓際で、普段と違った真面目な表情で彼女はそう言った。私も全く同じことを考えていた。

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彼女は同じ部活の子だった。小学校は別々だったけど、入部後すぐに仲良くなった。
明るくて、周りからとても好かれる子。勉強はあまり得意ではないと言っていたけど運動神経は抜群で、家族仲も良くて、私なんかよりもよっぽど「死」とは無縁そうな子だった。
でも、冗談を言っているようにも見えなかった。彼女がどうしてあんなことを言ったのか、その心の底は未だに分からない。

そういう私も、別に本当に死にたかったわけじゃない。確かに、部活や人間関係のことでもの凄く悩んでいた時期ではあったけど。要領の悪い私は先生とも先輩とも、友達とすら上手くやれていなかった。
でも死にたいと思ったことなんて本当にない。というよりかは、そもそも「自分が死ぬ」という発想自体が、本当の意味では頭になかったという方が正しいかもしれない。
もしも12歳の時の私のなかに “死ぬ”という選択肢があったら、もしかしたら私は。そう思うと少しぞっとする。

じゃあどうして私は「一緒に死のう」だなんて彼女と約束をしたのか。それは「彼女の特別な存在」という称号が欲しかったに他ならない。

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クラスが別々だった私たちは、その日も廊下の窓際でどちらともなく集まって談笑していた。いつもと何も変わらないはずだったのに、どうしてそんな約束を交わすに至ったのか、正直もう思い出せない。

覚えているのは約束を交わす直前、突然なぜかお互い黙り込んで少し張り詰めた雰囲気になったことと、あの彼女がそんなことを言った驚きと、心の奥底から湧き上がってくる、空っぽな心を満たすどろりとした喜びだけだ。

きっととてつもなく怖いに違いない、終わりの瞬間に手を繋いでいてくれる、そんな相手がいること。もしも一緒に死ぬとしたら君がいいと、お互いに想い合える相手がいること。
それがあの頃の私にはどうしようもなく嬉しかった。それだけで、私は自分のことを生きている価値がある人間だと思えた。

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それから6年が経った。私と彼女は別々の高校へと進学したあと、徐々に疎遠になってしまった。あの瞬間、間違いなく誰よりも私の理解者だった彼女との距離は、環境の違いによって自然と遠ざかっていった。
嫌だった。こんなに気が合う人、他にいないんじゃないかと本気で思うほどに大切な友達だったのに。
そして大学への入学が決まった後、私は思い切って数年ぶりに彼女に連絡を取り、会う約束を取り付けた。またあの頃のような関係に戻れるんじゃないかと期待して。

待ち合わせの電車の中に現れた彼女は少し髪色が明るくなって、見た目の印象は垢抜けていたけど、喋り方も雰囲気も何も変わっていなかった。変わっては、いなかったけど。
結果から言うと、一日一緒に過ごしてみて、まるであの頃に戻ったかのように楽しかった。それと同時に、もう私と彼女が中学生の時のような関係に戻ることはないと悟った。   
どうしてか。

それはもう私には、「一緒に死んでくれる友達」なんか必要なくなったからだ。

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会わなくなった三年間で、私は彼女がいない場所で新しい関係を築いた。大事な友達も沢山出来た。死にたくなるような辛いことがあった時も、彼女無しで起き上がった。三年間は、弱い子どもだった私を成長させるのに十分過ぎるほどに長かった。
そしてそれは彼女も一緒だろう。私以外に大切な人が居て、私が居なくたって平気。今更あの頃の関係になんて、もう戻ることはない。

けど、今はそうでも、中一のあの頃の私には彼女が必要だった。彼女が居たからこそ乗り越えられた苦しみが確かにあった。
昔のようには戻れなくても、彼女という存在が大切なのは今も全く変わらない。彼女にとっての私もそういう存在だったのではないかと考えるのは、流石に思い上がりだろうか。でも、そうだったらいいな。

一緒に死んでくれる友達がいなくても平気なくらいには私は大人になった。
あの頃のような特別な絆を失って、切なさを感じないと言えば嘘になる。けど、一つだけ言える。
あの時、中一のあの時、死ななくてよかったよね、私たち。