三月の最後の日、最愛の人が亡くなった。
八年経った今でも三月が近くなると思い出す。
当時、私は高校三年生で街に遊びに行っていた。プリクラのラクガキをしている時に母親からメールと電話が入っていた。
“ばあちゃんが、もうだめ。早く病院に来て”
祖母は肺気腫を患っていた。余命を宣告され、新しい薬を試してみようと話していた矢先の出来事だった。急いで病院に行った。家族が枕元に揃った途端、心拍数は落ちていき、祖母は亡くなった。祖母の心臓が止まって、医者が死亡を確認した時、私は祖母を囲む家族の輪の中の外にいた。
“なぜ、輪の外にいたのだろう”
自分でもどうしてそうしたかは分からない。でも、悲しみより、後悔が大きかった。
“もっと一緒にいればよかった。もっと話せばよかった。もっと伝えればよかった”
そして悲しむ暇もなく、お通夜と葬儀の準備が行われた。
「明日お見舞いに行こう」けれど明日はこなかった
「明日お見舞いに行こう」
亡くなる一週間前に思っていたことだった。けれど、明日なんてこなかった。
お通夜では、母と父と兄と弟は泣いた。でも、私は涙を流さずただ黙っているだけだった。
告別式の時に、私はお別れの手紙を読むことになった。
お通夜が落ち着き、手紙を書こうと思って葬儀場で便箋を出した。横で親族たちが思い出話に花を咲かせていた。
“ばあちゃんへ”
たくさん書きたいことがある。謝りたいことが多い。でも、どう話したらいいのだろう。なんと言ったらいいのだろう。便箋が足りないかもしれないと思っていたが、本当に書きたいことは書けなかった。
私は、ばあちゃんに未だに謝れていない。
“ばあちゃん、お金盗んでごめんね”
勉強のため、友達のため、私は母と祖母の財布からお金を盗んだ
私は高校生になってから、母親や祖母の財布からお金を盗むようになった。
理由は、ただ友達と遊ぶために必要だった。それだけだった。
友達と遊ぶにはお金がかかる。
行かなくて仲間外れにされたくない。
バイトで行けないと言いたくない。友達が誘ってくれるものには全て行かなければいけない、と思っていた。
最初は母親に遊ぶためにお金が必要だと言っていた。しかし、母親は「遊ぶお金ぐらい自分で稼ぎなさい」と言った。
働きたくない。
中学校は勉強で辛い思いをしたから、高校では成績を落としたくない、その思いからバイトはしなかった。
でもお金は必要だった。
最初はほんの出来心で、あまり大きな額を盗むとすぐにバレるし、怒られるからと思って、千円とか二千円を盗んだ。
しかし、ある時、一日友達と遊ぶことになって、でもお金がなくて焦っていた。そして、祖母が部屋にいる隙に、カバンから財布を取り、中身を見た。
そこには一万円札が何枚か入っていた。それを一枚引き抜き、私はポケットに入れ、財布を戻した。
何事もなかったかのように「遊びに行ってくる」と言い家を出た。盗んだお金で遊ぶのに罪悪感はあったが、心の中でテキトウな言い訳をした。それから、何度かお金を盗むことを繰り返した。バレないように母親の財布からも盗んだ。祖母は家族の誰にもお金が無くなっていることを言わなかった。
でも気づいていた気がする。
祖母は私のことをいつも心配してくれていたし、私のことに関しては何でも知っていたからだ。その祖母を裏切るようなことを私はずっとしていた。それは祖母が入院してからも止められなかった。
今でも後悔が残る。
多感な時期だったなんて片付けない 私は一生背負わなければいけない
亡くなった祖母のことを思い出す度に心の中で謝る。
「ごめんなさい。ごめんなさい。お金を盗ってごめんなさい」
言うことはできても、返事を聞くことはできない。そして、お金を返すことも、償うこともできない。
この気持ちは一生背負っていかなければいけない。
祖母が生きている間に私の生きている言葉で「ごめんなさい」と言えたらどうだったのだろう。
「高校生の多感な時期の私だったから」といって、このことを片付けたくない。
もし、一つだけ願いが叶うのなら、最愛の祖母に「ごめんね」と伝えたい。
生きた言葉で伝えたい。
「ばあちゃん、ごめんなさい」