私は、久々に会った高校時代からの友人と行った喫茶店のコーヒーの味が忘れられない。

大学3年生だった私は、当時片思いをしていた相手がいた。しかしどう頑張っても、ただの年下の友人にしかなれなくて、苦しんだ時期であった。どんなに思い出が刻まれていっても、お付き合いの関係性にはなってくれなかった。

片思いの相手は、私よりも年上で、経済力もあり、プチ旅行に連れて行ってくれたり、色んなお店でごちそうしてくれたりした。この点深く感謝すべきであるが、対価としてのお礼にも苦しんだこともあった。
それを相談したくて、私の性格を一番わかってくれている高校時代からの友人に声をかけた。

彼女と私はブラックコーヒーと栗のパフェを注文した。しばらくしてからコーヒーが先に運ばれてきた。なんと深みのある味だろう。雑味がなく、苦みのみを凝縮したような品格高い味であった。今までの人生で一番おいしいと感じたのは紛れもなくそのコーヒーだと断言できる。

片思いの彼が淹れてくれたコーヒーは、酸味が強かった

片思いの相手が淹れてくれるコーヒーの味は鮮明には覚えていない。確か酸味が強かったような気がする。
彼はコーヒーが好きで、よく自分で淹れて飲んでいた。コーヒー豆を挽いて、私にも何度もふるまってくれた。その時の私は、そのコーヒーの味よりも、会話のほうに全集中力を注いでいたため、味覚にまで気を配ることなどできなかった。
しかし確かなことは、そのコーヒーの味に感動するほど味覚が大きく反応したことはないということである。

感覚は相性なのではないかと思う。五感が心地よいと感じる相手や、五感の感じ方が似ている相手は相性が良いという自論がある。
感覚は思考ではどうにも変えることはできないもので、遺伝子レベルで左右されるものであると思っている。だから、彼がおいしいと思うものをおいしいと感じられないことや、感性に共感できないことは、相性がそこまでよくないという証なのではないかと思う。

その点から考えると、高校の頃からのその友人と私は相性がいい。その喫茶店で出されたコーヒーを一口飲んで、一度間をおいて感動に浸り、もう一度飲んでから「おいしい」と同じタイミングでつぶやいた。
どちらともなく、動作を合わせるつもりもなく、なぜか合うのである。不思議なものである。そこで一笑いしてから、本題に入る。

口も心も幸せな時間を、友人と過ごすことができた

片思いが苦しい、と。友人は頬杖をついて、私の中でため込んでいた言葉が底をつくまで聞いてくれた。そして一言。

「とりあえず、コーヒー飲む前に甘いものでのどを浄化してから飲もう。あなたの清らかなのどをそこまで汚すような相手はあなたにふさわしくないからさ。いつもの清らかなあなたののどは、そんな苦しい思いは通さないはずでしょ。……とか小説みたいなこと言ってみた」
だそうだ。

私は自分の気持ちが昇華されたような気がした。
気づくとテーブルには、栗のパフェが置かれていた。生クリームを一すくいした。口いっぱいに幸せが満ちた気がした。

友人は「味がさ、おいしいなって、幸せだなって感じられる環境が一番だよ。やっぱり感覚が一番。感覚は考えちゃダメ」と続ける。

友人は詩人チックなところがある。そこも魅力である。私はそのおいしいパフェを堪能し、のどを清らかにしてからコーヒーを飲んだ。そのあとはずっと笑い話で過ごした。感傷に浸るのもありだけれど、落ち込みから復活するには、笑うことが一番だと思った。

そのコーヒーは最後まで味わって少しずつ飲んだ。口も心も幸せな時間であった。