その看板が喫茶店だと知ったのはその店ができてから半年くらいたったあとだった。
シンプルに店の名前だけが書かれた看板。
入口の階段はせまく、そもそも店なのかなんなのかわからなかったが
外から見える2階の窓のランプの形が珍しくいつも見上げていた。
さすがに気になりすぎてネットで調べると喫茶店だとわかった。

コーヒーが好きなので行ってみたかったが、入る勇気もなく
住んでいるアパートから歩いて1分なのにずっと通り過ぎていた。

恋人からの連絡を待つ帰路、不安な気持ちから逃れるように喫茶店へ

はじめて2階にある、左回しのあけにくいドアノブを握ったのは平日の仕事終わりだった。

そのとき私は彼氏とうまくいってないと気づきながらも、知らないふりを始めたころだった。
いつも彼氏からの連絡を待っていた。
忙しい人だったので会える日はわからず、その日に「会える」とLINEが来るのを待つだけだった。
この日も彼氏からの連絡を待っていて、家に帰りたくなくて
デパートにいったり時間をつぶしていたがあきらめて帰路についていた。

急になにもかもがどうでもよくなって件の喫茶店にはいったのだ。
あけにくいドアで苦戦しているとそれをあけてくれたのは私よりも少し年若い男性だった。
コンクリートが打ちっぱなしの武骨な店内には客はおらず、私とマスターの彼だけだった。

ホットコーヒーを頼むと豆を挽くところからはじまり
ゆっくりとコーヒーの匂いが私のところにも届いた。
もうこの時間にLINEがこないことはわかっていたので
携帯は鞄から出さずぼんやりとむき出しの天井の配管を眺めていた。
灰皿とともにマッチが添えてあり、マッチをこする音が新鮮だった。

心に染み渡るコーヒーの味。今では週1通うなじみの場所に

コーヒーは少し酸味のある味だった。
いつもは苦手な酸味のあるコーヒーだがこの時は身体に染み渡る心地よさがあった。

強張っていた気持ちがほどかれたのか涙がでた。
声をあげて泣くというよりはこぼれるようだった。
はじめてきた店で泣くなんて恥ずかしかったが、
カウンターに背を向けて座っていたのでばれていないと信じたいところである。

お会計をするとマスターは下まで見送りにきてくれた。
にこやかな人ではなかったがとても丁寧な人だった。

結局彼氏とは振られるような形で別れた。
私が知らないふりをやめて向き合った結果なので仕方ない。

それ以来私はその店に週に1回は通うようになった。
常連といえばそうなのだろうがマスターとは特に立ち入った会話をするでもなく
店に入れば会釈をしてくれて、店の下まで見送ってくれたときに
天気とか当たり障りないことを話すだけだ。

程よいマスターとの距離感、コーヒーがくれる私だけの大切な時間

その店でコーヒーを飲むときは、時間や人とのしがらみや
余計なことを考えたくなかったので携帯は見ずに本を読むようになった。

思いだしたが私は昔から本が大好きだったのだ。
あんなに好きだったのに大人になって全く読まなくなった。
実家に置きっぱなしだった本を持ち出して、読み終わったら交換してまた持ち出す。
一人暮らしの部屋に本棚を置けないことを恨めしく思う。
本屋さんにもまたいくようになった。
棚びっしりにならぶなかから好みの本を探すのは疲れるが楽しい。
こんなに好きだったのにどうして忘れていたのだろう。

家だと用事が多く集中できなかった。
喫茶店でコーヒーをのみながら本を読むときは
私が自分を忘れることができる。
もともと妄想癖があるので本を読むとどんどんその世界にはいっていく。
探偵にもなれるし異国の王様にもなれるのだ。

そしてマスターとの距離感も居心地がよかった。
お互い控えめな態度は私と彼が他人であるという安心感。
家族、友人、同僚、恋人。
なににも属しない顔見知りという間柄。
少し人間関係に振り回されていた私にはちょうどよかった。

きっとこれからも私はあの喫茶店で、
あの珍しいランプの下で本を読む。
マスターとの距離もかわらない。
私だけの時間をくれる喫茶店だ。