「休みの日は何してる?」
よくある質問だ。昨日乗っていた電車の中でも、近くからそんな話が聴こえてきた。
初対面の人、親しくなった先生、寄り添ってくれようとする先輩、ちょっと良いかも!と思った人、英語の授業で隣の席の人と仕方なく繰り広げられるワーク……。この質問に悪意の欠片なんてきっと何一つなくて、むしろお互いに心のちいさな窓を開けて歩み寄りましょうというあたたかい質問なのかもしれない。
でも、わたしはいつも「そんなこと聞かないで!」と思う。
答えづらいなあという顔をすると心を開いてくれないんだとか、信用されていないんだとか思われて、相手に悲しそうな顔をさせてしまったり、反対にわたしの方が突き放されてしまったりする。でも、どう答えたらいいんだろう。
というのも、側から見たわたしは、休日を何もせずに過ごしすぎているから。
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大学もバイトも課題もなくて今日は一日ゆっくりできるという日は、朝起きたらとりあえずぬいぐるみの感触が昨日と変わらないことを確かめて、スマホを眺める。画面の中の何を見るでもなく、ホーム画面を右に左に行ったり来たりして、どうでもいいことを考える。
「玉ねぎ」と「長ねぎ」があるけれど、「ねぎ」と聞いて思い浮かべるのは長ねぎの方で、長ねぎが「ねぎ」を独占しているのは玉ねぎが可哀想!とか、「蛇足」っていうけれど、わたしは昔鳥を描くときに羽根に加えて手まで描いてしまったことがあるから「鳥手」だなあとか、呆れるくらいただひたすらにくだらないことを考えてしまう。
そのときのわたしを誰かが見たら、あまりに何もしていなくて笑ってしまうと思う。でも、頭のなかを多様なことばたちが忙しなく駆け巡っている。
ことば以外にも、時空を超えてさまざまな登場人物がわたしにどうでもいい感想や答えにならない答えを求めてきて、かなり忙しい。
例えば、猫が人間のことばを全部知っていて、「かわいいね」ということばに慣れ過ぎて他の褒めことばをくれよ!と思ってるとする。もしそうだったら、本当は「ハンサムで格好良いね」と言われたいのか、それともそんなお道化た顔をするのは、「おもしろいね」を一番の褒めことばと捉えているからなのかな、とか考えてみる。
例えば、文豪の誰かに会えるのなら、わたしは宮沢賢治と友達になって一緒にランチに行って、それぞれの空想世界の話をするんだろうと思う。そして、あなたのなかのカムパネルラと一緒にどこまでも行けるとしたらどこに行きたいか、地球の裏側か、空の上か、火星の向こう側かとかいう話をしている未来が見える。わたしは、ああそれならなんとなく空の上かなあと答えるような気がする。そしていつか心からわかり合える関係になれたら、家族でも友人でも恋人でも、誰かのことを真剣に愛したことはあるかと聞いてみたい。
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休みの日はあれもこれもしたいという行動的な人もいて、それはそれですてきだと思う。わたしにも計画力や体力があったら、たくさん外に出かけていたのかもしれない。
でも、わたしも頭のなかでたくさんの場所を旅しているし、ときに時代も超えられる。それでも、内向的なわたしが「休日は何してる?」という質問をくれるような関係の相手に対してこんな話ができるはずがない。
さて、いつかこんな休日の過ごし方を誰かに伝えることができるのだろうか。きっとやさしい人には冗談だと笑われて、多くの人には何を言っているんだと逃げられてしまう気がする。こうして文章にしてみると改めてばかばかしくて恥ずかしいけれど、わたしの中にある好きという気持ちやくだらない思考が時折とてつもなく愛おしい。
そういえば、平安時代中期、菅原孝標女は『更級日記』に物語に耽るばかりの人生を過ごしてしまったという後悔の念を綴っていた。
わたしも、たくさんの休日を空想世界に費やしてきたことをここに白状したい。