わたしは自分に謝りたい。他人にも謝りたいことはたくさんある。でも、今のわたしは自分のことしか考えられない。わたしがなぜ、昔の自分に謝りたいのか。それは、自分の可能性を信じてあげられなかったからだ。
これは今も昔も思っていること。どうして多くの大人たちが「将来の夢は?」という質問をするときに「理想の職業は?」という意味で聞いてくるんだろう。
どのカードを切ればウケるかと考え、将来の夢をコロコロ変えた
幼稚園の頃の将来の夢はケーキ屋さんだった。理由はケーキを食べたかったから。ケーキを作りたかったわけではない。大きくなったわたしはバレンタインのチョコレート作りのたびに、キッチンを事件現場に変身させてしまう。きっとお菓子を作る人には向いていない。あと、数年に1回しかお菓子を作らない時点で、お菓子作りを好きなわけでもない。
時は流れ、小学生になると、将来の夢はコロコロ変わってばかりだった。看護師、漫画家、その他いろいろ。友だちに「夢ってコロコロ変わるよね?」って聞いたら、友だちはキョトンとしていた。わたしの夢がコロコロ変わるのは、いろんなことに興味があるから、ではない。どのカードを切れば、ウケるかという視点を持っていたからだ。大人には真面目そうな職業を挙げ、同級生には本当になりたいものを言っていた。
小学生の頃にファンタジー系の児童文学にハマったことをきっかけに、読書が好きになった。学校図書室と公立図書館の二股をかけて、常に本を読んでいた。そうして、文章を書く人、つまり作家になりたいと思った。
参加した英語スピーチで伝えたい話題がなく、作家になれないと思った
けれど、中学生のときに、わたしは作家にはなれないと思う出来事があった。中学校のときに英語スピーチに出場したときのことだ。英会話スクールに通ってはいたけれど、部活動には入っていなかった。スピーチで話せるような話題がなかったし、大勢の人に伝えたいことなんてなかった。こんなにからっぽな人間は、とても書く人にはなれないと思った。
でも、中学生のわたしはからっぽなんかじゃなかった。毎日、日記を書いていた。ペットのハムスターがかわいいとか、冷凍食品のたい焼きにハマっているとか、体育館裏で日向ぼっこをしたとか…。確かに大勢の人の前で話すような話題は一つもない。だけど、中学生のわたしは自分の好きなものや大切なものを分かっていた。
時は遡る。小学校の朝礼のときに、「校長先生は偉いはずなのに、なんで話が上手じゃないのかな」って思っていた。時間を有効に使いたくて、将来設計の時間に当てていた。結局のところ空想の世界に逃げてしまうんだけど…。きっと校長先生の話があんまり上手じゃなくても、部下である先生たちは聞くと思う。でも、子どもはつまらない話は聞けない。とりあえず座っておとなしくしているだけだよ。心は空想の世界を駆け巡っている。
大人のせいにするのは終わり。どんな暮らしをしたいかと自分に問う
子どもを話に引き込むのは簡単なことじゃない。それと同じで子どもに読んでもらえる文章を書くのも簡単なことじゃない。大人の頭で、児童文学を読み直すと、読んでもらうために、どれだけ工夫をしてあるか気付いてしまう。子ども向けでなくても、読んでもらえる文章を書くことはとても難しい。
今、わたしは毎日書いている。文章の長さは日によってまちまちだ。書くことは楽しい。書きたいことはいっぱいあるのに、体力がないことがつらい。楽しいことばかりしていても、肩はこるのだ。わたしは肩こりを楽しくない仕事のせいにしていた。でも、そうじゃないね。こる場所がちょっと変わるだけだ。そして、書く楽しさを感じると同時に、読んでもらえる文章を書くことの難しさを噛みしめている。
どうして多くの大人たちが「将来の夢は?」という質問をするときに「理想の職業は?」という意味で聞いてくるんだろう。でも、大人のせいにするのはもう終わりだ。誰も聞いてくれないなら、自分で自分に聞けばいい。「どんな暮らしをしたいの?」
おうちで文章を書いて暮らしたい。中学生の頃のわたしと一緒に夢を叶えたい。だから、わたしは今日も書く。