再就職して半年がたった。前は旅館で接客をしていたが、今回は内勤の事務スタッフをしている。
発達障がいをクローズドにして働くのは限界だった。旅館の採用担当には伝えてあったものの、「我慢してください」の一点張りで疲れてしまった。

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当時社長が教わっていたコンサルの先生は、私を公に持ち込まず、その逆は積極的にやれというタイプだった。休憩時間や休みの日も仕事につながることをして過ごせということだ。
仕事をしろと言わず、あくまで自主的にというところが本当にずるかったと思う。私が入社した年度は昇進を含めて6人が正社員採用だったが、その後2年間で4人辞めてしまっている。経営者側に有利な改革案だ。

こんな指導を受け続けた結果、私と仕事との距離感は完全にバグってしまった。昔合唱をかじっていたと言ったら、休日までロビーコンサートに出なくてはいけない空気を作られてしまった。社内合唱団の創設及びマネジメント、歌唱指導まで私にさせようとしていたというのだから恐ろしい。

人にものを教えるというのはそれなりに責任が伴うというのが私の持論である。ましてや合唱は身体表現の世界だ。適当なことを言ってその人ののどに障害を残してしまったら取り返しがつかない。
そうならないためにプロの指導を頼み、練習のために休日や休憩を返上した場合、手当はつくのか。私一人なら部活の延長のようなものなので、夜に突然呼ばれてもなんとかなる。団員となる従業員に保障がなされないなら危険すぎる話である。

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私がこの仕事を引き受けなかったのには、もう一つ理由がある。
ハンドメイドの作家の方が材料費の安さを理由に、不当に値切られてとても悲しかったという話。ネット連載で成功している漫画家の方が、タダ同然で知人に装丁を要求されたという怒りの投稿。当時、クリエイターの立場からの議論が話題を呼んでいた。

技術を身につけるには、時間とお金を費やす必要が多かれ少なかれある。それらの対価を原価に乗せているのに、それを理解していない人があまりにも多い。
ピカソが「どうせ片手間でさっさと描いているでしょうから安値で買いますよ」と言われて取引を断った話がいい例だ。片手間でさっさと描けるようになるまでの時間と労力への投資が、買い手には見えていないし見ようともしていない。作家の方々はそこに侮辱を感じて抗議している。

こうしたスキルの搾取ともいえる事態には、相手の仕事に対するリスペクトや思いやりをきちんと伝えること。これが自然にできる人を増やさないと解決できないのではないだろうか。学校教育の段階で、しつこく教えた方がいいと私は思っている。

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実際に、私にももやもやしたことがあった。
中学校の音楽会はクラスごとに曲のイメージ画を発表する。絵が描ける人がやるべきだという意見によって、唯一の美術部員に依頼すべきという風潮があったが、彼女はこれを拒んだ。

美術部は全員絵がうまいわけではないこと、個人製作が忙しいことなど理由は様々あったと思うけれど、私はそれが決してわがままではないと思った。合唱部員は全員歌がうまいと思われても困るし、「お前たちはこういう場でしか役に立たないのだから黙ってクラスに協力しろ」という無言の脅迫のようなものを行事の度に感じていたからだと思う。

最終的に音楽会の運営を担う委員だった私ともう一人の男子が筆をとることで無理やり場を決着させた。
絵の仕上がりは散々だった。一連の流れに対するいわゆる「一軍」からのブーイングはあった。では彼らが自分たちの発表に真摯に向き合っていたかといわれると、違うと断言させていただく。素人の絵に文句をつけられるほど、きちんと練習に取り組んでいたようには見えない。無駄口を叩いている最初の10分で、一曲最後まで合わせられたのだ。部活で同じことはしないだろうに。

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そんな記憶もあり、この旅館でこれ以上スキルの軽視及び搾取の前例を作るわけにはいかないという結論に至った。

自分の仕事に誇りを持てること。他人の仕事を認め、感謝すること。身につけたスキルを活かしたら、目に見える形で評価されること。それが当たり前の職場で働きたいと思った。
今のオフィスは分業制であり、一人一人が自分や他人のスキルの重要性を受け止められていて、働いていて心地よいと思う。

自分と他人の技能を搾取せず、軽視しない。互いの仕事を尊重できる距離間で、一日も長く社会人で居たいものである。