「家族がほしい」。人と家にいられない、自由奔放なアラサー女子が本気でそう思ったのは、コロナ禍がきっかけだった。

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学生時代から、“ステイホーム”と無縁だった。
中学生の頃、入部したバレーボール部は学校で1、2を争うほど厳しい部活動で、365日、練習に明け暮れた。高校はスパルタ教育を売りにした進学校を選んでしまい、放課後は、追試と自主学習という名の補講で埋め尽くされる毎日。華やかな青春を奪われた。
家にいない生活がすっかり身についてしまい、大学に入ってからは、アルバイト3つを掛け持ちし、サークル活動や学生主催の出会い系イベントにも参加した。

とにかく、何もしていない時間が惜しかった。何かしていないと落ち着かない。
ほとんど家に帰らない娘に、母はしばしば「自由すぎる」と呆れていた。本当にそうだと思う。
時間は自分のために使いたい。他人の生活リズムに縛られるのは嫌だ。気付けば、家で人と過ごしているだけで居心地が悪いと感じるようになっていた。

社会人になって、ひとり暮らしを始めた。
家を出る時間、ご飯を食べる時間、すべて自分で決められる。いつ、何をしてもいい。快適で仕方なかった。
地元を離れたばかりで、休日を過ごす友達もいなかったため、毎週のように遠出したり、カフェで読書や資格の勉強に費やしたり、ひとり行動を堪能した。初めてひとり海外旅行も経験できたし、職業柄、飲み会によく誘われたが、高確率で参加できたおかげで新たな交友関係を広げられた。予定がない日はほぼなかった。

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2020年春、すべてが一転した。コロナの感染拡大で、外出が制限された。不要不急の予定で埋め尽くされていた私のスケジュールは真っ白になった。

家にいるなんて、何年ぶりだろうか。寝床でしかなかった1Kの我が家には、テレビやDVDレコーダー、パソコンといった趣味に使える家電が一切ない。
そらそうだ、使う機会がないのだから。何をして過ごせばいいか分からず、休日を迎える度に気がおかしくなりそうだった。スマートフォンで“家での過ごし方”を検索し、手の込んだ料理に挑戦してみた。美味しい。なのに、味気ない。
SNSを開くと、家族と自宅で余暇を楽しむ同僚や友達の姿が画面に映し出された。ついこの前まで仲間だったはずなのに、別世界にいる人のように思えた。
「私、このまま独りでいたくない」。誰かと暮らしたくなった。

翌春、交際して半年の彼と結婚を決めた。同棲もしていないのに、うまくやっていけるのか。そもそも、人と生活をともにするなんて6年ぶりだ。不安はあったが、あの時に感じた虚しさが勝った。何とかなる気がした。

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あれから、1年と半年がたった。いまだに、人と同じ空間で長時間過ごしていると違和感を覚える。仕事の合間に2人分の家事をして、休日は彼とスケジュールを調整しながら自分の予定を立てる日々。
今秋には子どもが生まれた。家族が増えるのに比例して、自由は減っていく一方だ。
一人で生きるって、あんなに楽だったんだ。時々、自分の時間がほしくてたまらず、独身の頃の身軽さが恋しくなる。
だけど、いつだって誰かのためを思って生きて、誰かの日常に私がいる。あの時にはなかった、揺るがない人生の意義がある。
あぁ、不自由って、幸せなのかもしれない。