物心ついた時から、「人に優しくありたい」と思っていた。人の気持ちを理解し、人を助けられるような存在になりたかった。
しかし、年齢を重ねるに連れ、自分は全然優しい人間ではないという事実を、日に日に痛感している。

今思うと恥ずかしいことだが、私は自分の考えが正しいと思っていた時期がけっこう長かった。親や教師をはじめとした周囲の大人の言葉や行動は正しい。そのため、大人に忠実に従う私も正しいと思っていたのだ。

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「大人は正しい」と子どもが思い込んでしまうのは、教育や環境の影響もある。
私の地元では、地方の狭いコミュニティの中、勉強や運動の得手不得手、人前での態度など、誰もが判断できるような指標で子どもは評価されることが多かったように感じる(決して地元を非難しているわけではないが、当時を振り返るとそのように感じてしまう)。
幼い私は運動が苦手だったが、勉強は得意で、人前ではいい子を繕った。そのせいか、私は生徒のお手本として扱われることが多かった。「継実さんのように勉強を頑張りなさい」とか、「継実さんみたいにしっかりしなさい」とか。
私はその状態を保とうと努力した一方、評価されていることを鼻にかけていたのかもしれない。

例えば、同級生との間でトラブルが発生した時。自分の立場が少しでも危うくなると、私はすぐに泣いていた。
いい子扱いされている私が「自分は悪くない」とアピールすることで、相手の立場が不利になる。よって、私が強く咎められることはあまりなかった。元々が泣き虫であるため、泣きたい気持ちを放出することは容易であった。
高校生くらいまで、泣けば大体のことは解決すると本気で思っていた。

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また、無意識で人を傷つける言動をしてしまった。大人の意見は間違っていないという自信があったのだろう。いくつか思い出せる中で、とても後悔している発言がある。
中学時代のある教師は、勉強の成績が芳しくない生徒に厳しく接するだけでなく、人格までも否定していた。私は恐怖を感じ、幸い厳しい叱責から回避していたものの、無意識でその教師の考え方を身に染み込ませていた。
放課後、残った生徒数名と会話していたとき、私は「塾に行って勉強するのは甘えだ」と堂々と話していた。その教師の発言の受け売りだった。その場にいた生徒は、冷めた顔をしていたと思う。

過去を掘り返せば掘り返すほど、私は酷い言動をしてしまったと後悔し、胸が痛くなる。
20代後半になった今でも、自身の言動に気を遣うよう心がけている一方、ふとした瞬間や一人反省会をしている時、「あの言動はよくなかった」と悔やむことが多々ある。

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私が人を傷つけてしまう理由。それは、私が無知だからだ。人の立場や気持ちを考える方法を知らなかった。間違った大人がいるということを知らなかった。
そもそも、世間一般の常識や倫理観も知らなかった。教科書に書いてあることを学ぶだけで、知った気になっていた。
たとえ、無意識だったとしても、その原因は無知にあるかもしれない。無意識が理由で全てのことが許される訳ではない。「無意識」の文字通り、意識のない状態で発生してしまったことかもしれない。だからと言って傷つけていいこととはイコールにならない。
無意識を防ぐ術の一つとして、無知の解消があるのだと思う。知ろうする意欲や学ぼうとする態度、知識を獲得することで無意識を減らすことができるのだと思う。

私が過去に傷つけてしまったみんな。無意識に傷つけてしまってごめんなさい。
私は思っていた以上に、何もかも知らなかった。自分の都合のいいことだけ知ろうとした。今そのことを責められたら、素直に謝罪したい。
そして、同じ繰り返しをしないよう、私は学び続ける。これ以上無知にはなりたくないし、無知の上に生じる無意識な言動もしたくない。どうせなら、無意識に人の気持ちを考えられるような人間になりたい。そうしたら、私が憧れていた「人に優しくあれる人」に近づけるかもしれない。
長い道のりでも、しっかりと踏みしめて歩んで行きたいと思う。