コロナ前の私のチャームポイントは笑顔だったと思う。
「なつめちゃんはよく笑う」「笑顔がかわいい」。今までたくさん言ってもらった。初めて好きになった男の子が、「俺が好きな人はね、よく笑ってる人」と言うから、みんな笑うじゃん、ヒントにならないと笑うと、「そんな風に」なんてあっさり格好いいことを言うからこちらが赤面したこともある。あれは私達が付き合う少し前のことだった。
楽しかった記憶、面白かったこと、甘酸っぱい思い出。笑いと共にあったのは幸せな記憶ばかりだ。
◎ ◎
そんな時、笑顔は威嚇だという話を小耳に挟んだ。笑いが人間の特権だという話も。
もしそうだとしたら、私は毎日人間の特権を存分に生かして、あらゆる人や物事を威嚇していることになる。
「笑いのツボが浅いよね」
「なんでもないことなのに。どうしてそんなに笑うの?」
今までは特に気にも留めていなかった。それが、なぜ自分が笑うのか、私にも分からないことに気が付いた。
それからは思いきり笑うことができなくなった。どんなに楽しくても、嬉しくても、面白くても、心の端っこで、なんで笑っているんだろうという疑問が拭いきれなくなった。
笑い過ぎのせいか頬が筋肉痛になることも、頬肉が盛り上がることも、気になるようになった。真っ白でも並びが綺麗なわけでもない歯が見えるのも嫌になった。特別何かがあったわけでもないのに狂ったように笑う自分がバカみたいだった。
たった一つのどうでもいいような些細な疑問に、私の幸せは奪われた。自分で奪ってしまった。
◎ ◎
間もなくしてコロナが日本に上陸した。
ずっと望んでいて、やっと自ら手に入れた留学が1週間前に中止になった。たくさんの人が死んだ。外出が後ろめたいことになった。マスクを買うのに朝から何時間も並んだ。
嫌なことだらけだった。でも、相変わらず私は笑っていた。なぜかは私も知らない。
持て余すようになった時間で、パンを作り、出来に満足して笑った。
夜、暇だからと、母と人のいない公園に行って何年かぶりにブランコを漕いで懐かしいねと笑った。
休校の間は祖母と平日の昼間のテレビを観て笑った。
学校に行けるようになると、今までのようにそこでも笑った。
相変わらずどうして笑うのかは分からないままだった。
◎ ◎
そんな風に今までとは違うことをして、壊れたロボットのように笑ってなお、コロナ前よりなぜか時間は持て余した。それらの多くはパソコンと向き合うことにも費やされた。
笑うのが人間の特権なんてデタラメだった。そういえばサルなんかも「アッアッ」と笑い声のような鳴き方をするものだ。
一方で、声をあげず、微笑むこと、笑顔を見せることのルーツが威嚇だという説は真実味を帯びていった。
“grimace”
その単語で画像検索すると、紫色のキャラクターが気怠そうな、でも微笑んでいるようななんとも言えない表情をしている画像が何枚も出てきた。
翻訳ではしかめっ面、渋面などが出てくるがしっくりこない。日本語には訳せないニュアンスがこの単語にはあった。英英辞典でもまだマシというレベル。いくつかの説明を読んでやっと頭の中で形作られるもの。とりあえず何かマイナスイメージの表情だと伝えたいことだけは言える。
“grimace” 。あのキャラクターが頭から離れなくなった。何を考えているか全く分からない表情。ミステリアスな紫。
頭の中に新たなもやもやを抱えて私は学校へ行った。
◎ ◎
友達のたわいもない話を聞いている時だった。
「なつめちゃん、なんか嬉しそう」
その言葉に我に帰った。マスクの中でまた口角が上がっていた。
どうしてだろう。まただ。でも、あれ?口元は見えていないのに言われた。
マスクしてるけど私、笑ってる。見えないのに歯を見せて、思いっきり笑ってる。特権ではない。まして威嚇でもない。見えもしないのに口元で威嚇しても意味がない。目は口ほどにものを言った。
なんで笑うのかはやっぱり今でも分からない。
でも、笑っていて悪いことはなかった。運が良ければ周りの人も笑ってくれる。肯定的に受け入れてくれる。私もそれで幸せな気分になれる。だったらそれでいいじゃないか。
謎のgrimaceのキャラクターよ。あなたがマスクをしたら、人はあなたの表情を何と説明するだろうね。