文章を書いたとき。その行為は誰の為のものですか?そう聞かれて一般的な答えは、手紙を書いた相手の為、だろう。
文章を書くのは人と自分をつなぐ行為であったり、誰かに思いを伝える行為であったりなど、外との繋がりが意識される対外的な行為だと考えられているのではないだろうか。
しかし、私にとっての文章を書くという行為の意味は、どちらかというと対外的なものというよりも対内的なものだ。言い換えると私はいつも「誰か」ではなく「自分」に宛てた文章を書いている。

元々誰かに何かを伝える手段としては、文章や文字よりも実際の言葉で伝えるほうが好きだ。ではなぜ私は文章を書くのか。行きついた答えは、自分の考えを整理してその意思を固めるため、である。
そのことについて、二つの体験談を以下に記したい。

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一つ目は、授業でレポートや論文などを書く際のことである。
レポートや論文を書くためには、まず多くの情報を集めて、必要なもののみを取り出し、説得力が出るように並べ替えるという作業が必要になる。
そのために私はまず集めた情報から「とりあえず書いてみる」ことにしている。それによって、この情報はいらない、これは最後に書いた方が良い、などと漠然としていた思考から、具体性を帯びたものに昇華することができる。
このように抽象的に考えていること、やってみたいと思っていることを文章に起こすことで、ぼんやりした願望や思考に明確な輪郭を持たせることができると考えている。

二つ目は部活の先輩や家族、友人に手紙を書く際のことである。特にここではお礼の手紙を書くという場面を想定して欲しい。
これは上記のような情報の取捨選択という面ではなく、今一度相手に対する自身の感情を問い直すという面が文章を書くことによってあると感じる。
自分は相手のどのようなところが好きなのか、尊敬しているのか、感謝しているのか。いつからそのように思うようになったのか、具体的な出来事は何か、きっかけがあったのか、などを一つ一つ詳しく見つめ直すことができる。この思考の問答によって、より相手への感情を再確認できる。そうして再認識した相手への好意や感謝を文章にするのである。
つまり、この場合の文章を書くことは、自分の中の相手の位置づけの再確認をするきっかけという役割である。

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以上の経験から、私にとって文章を書くことは誰かに宛てた手紙であっても、その本質は自身との対話であると考える。

私個人はSNSなどでの発信をしたことはないが、SNSも本質は変わらないのではないかと感じる。
とある人のアカウントに所謂「病み垢」というものがあり、内容も見たことがある。それに対して私は不特定多数の人に見てほしい、認知してほしいというよりは、自分の中にある感情を吐き出したい、という印象を受けた。
他にも日記を書く行為も、自分のその日あった出来事や感情を整理して残しておく為のものではないか。そしてそれを残しておきたいと思う相手は他でもなく自分自身なのではないかと思う。
どちらにせよSNSであっても、文章を書くことにおいて、その本質的な対象は自分自身にあると考える。

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また一方でマウントをとるようなツイートもSNSでは散見される。確かに一見外部に向けてのメッセージに見えるが、本当にそうであろうか。
上記の通り私はSNSでの発信をしたことがないので、これは想像になるが、そういったツイートをする際にも必ず自身との対話が存在しているのではないかと思う。
自慢するということは、SNSでの自分が自分自身にとって良い姿、理想の姿であるということだろう。結果的に外部に出している自分は、自分のなかの理想の姿の投影であるのではないかと感じるのである。

このように現在のようなSNSでの文章が多くなり、紙での文章が少ない時代においてもその本質は変わらない。文章を書くことは結局、他者のための行為に見えるものでも自身を対象にした行為なのだ。