太宰治の「人間失格」を初めて読んだとき、主人公の大庭葉蔵は自分よりまともな人間だと思った。
コロナウイルスが広まったのが2020年、マスクをして過ごす毎日がほぼ当たり前になっている2022年。マスクをしていると鼻から下が隠れるので、相手の本当の顔を見たことがない人がいるのではないか?
本当の顔……私はいつから他人の前でも本音を出すことがなくなったのだろうか。
人を信頼できない私は、人間関係をリセットし続けた
私が通っていた中学・高校は関東にあったが、田舎で周りがかなり閉鎖的だった。1人が列を乱すと一斉に攻撃する、それが私のクラスだった。
家族に相談しても眉間に皺を寄せるだけで、迷惑そうな反応をされた。自分が遭った嫌なことは私に八つ当たりするかのようにベラベラとおしゃべりするくせに。
私はそのとき人間に期待すること、信用することをやめた。
高校卒業後、専門学校に入学したが、そこでもうまく馴染めず退学。周りが自分より素晴らしい人間に見えたのだ。やりたいことができてやめたのはいいものの……。
専門学校では人に恵まれていた。派手目な人もみんな優しくいい人たちだった。だが、どこかまだ他人を信頼できずにいたのだ。
踏み込んで踏み込んで離れられるのが怖い。本当の自分を知られるのが怖い。高校でもそうだったが、専門学校で関わってきた人たちとは退学後、全員と縁を切った。
今でいう、リセット癖なのだろうか。SNSやLINEの内容やアカウントを頻繁に消す行為を何度もしてきた。そのたびスッキリはするが、こう毎回だとつらい。だが、なぜかやめられない。
きっと認めてもらえないから、本当の私は見せられない
今は普通に就職し、穏やかな日々を送っている。またまた運がいいことに、職場の人たちは年配の方が多いが優しい人たちに囲まれてなんとかやっている。
だが、うまく大人の距離感を保つのは以前と変わらない。距離が近すぎれば近すぎるほど争いは起きるし、本人の嫌な部分を知りすぎてしまう。これはいけないことなのだと学生時代に学んだ。
そんなことを不眠症になりながらも毎日考えていると、ついには精神を崩してしまい私はうつ病になってしまった。
家族は私がかかったうつ病を勘違いと言ったのだ。それが生きてきた中かけられた言葉の中で一番悲しかった言葉かもしれない。
だめな本当の自分など、世間は認めてくれないのだ。誰よりも完璧でなければいけない。自分だけは完璧でないと誰も愛してくれないのだと。男性で自分を好いてくれた人もいたが、気持ち悪いと感じてしまう。作った自分を見せていたのだから好かれて当たり前なのだ。本当の自分を見せたらきっと離れていく。
だれも他人なんか見ていない。わかっているけど
上司と不倫をし、職場を退社した元同僚が言っていたが、人間は自分が一番大事だし他人なんか見ていないのだと。そんなことはわかっている。だが、私には完璧に生きることが生きる糧だった。
自分にとって大庭葉蔵がまともに見えるのは、きっと彼が物語の中で誰よりも他人に愛されていて誰よりも血が通った人間だからだ。人間失格なのだと、とても思えない。
ふと、人と関われていないと悲しくなることがある。今でも職場の人にも家族にも素顔の私を隠しているのだ。それでもいい。これが私の人生なのだと思う。