友達に撮った写真を送る前、加工アプリで必死に消している線がある。
それは、私の顔にだけ刻まれている「ほうれい線」である。
私は生まれつき頬骨が高く、頬が厚い。
盛り上がった頬のせいで誕生したこの線は、物心ついた時から私の「コンプレックス」だった。

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このコンプレックスをしっかり自覚するようになったのは、小学校中学年の時だった。
図画工作の授業で、隣の席の男の子とお互いの顔を描き合ったことがあった。絵を描くことが好きな私はとても意欲的で、クラスの誰よりも写実的な絵を描いてやろうと、彼のどんな些細な特徴も観察してつぶさに描いた。
一方彼は、今日の給食のことでも考えているのだろうか。別のことで頭がいっぱいのようで、あまり私を描くことへのやる気がない。
そんな図画工作の時間をいくつか重ね、でき上がったクラスのみんなの顔は教室の後ろに飾られ、教室をより賑やかにしていた。

休憩時間、友達2人と各々が描いた絵を見た。私達の他にも数人の集まりが絵を指さしながら談笑している。来週の参観日で保護者へもお披露目されるだろう。
私の力作は先生や友達から目論み通り、「特徴を捉えていてそっくりだ」と褒められた。
したり顔の私は次に彼が描いた私の顔を探した。
そして、見つけた瞬間、思わず目を逸らしてしまった。私の顔にほうれい線がしっかり描かれていたからである。

正直、彼の絵には私の細かい特徴は反映されていなかった。目や口、輪郭などに私らしさは無かった。それにも関わらず、あんなに些細な特徴を描いた私の絵より、彼が描いた私の顔のほうが本人に近いように思えた。

これは母も見るのだろうか。
私の描いた絵は見てほしいけれど、この私を描いた絵は見てほしくない…
そんな私の願いは神様に届いたようで、参観日当日、母の体調が悪くなり、参観日には来ないことになった。内心ホッとした。

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それから、私は鏡を見るたびにほうれい線が目立たない表情を研究するようになった。
研究結果としては、笑うと良くないことが分かった。口を閉じても開けても、とにかく口が横に引っ張られるようなことがあれば、ほうれい線は濃く現れるし影もできる。

笑い上戸なので、笑顔を我慢することができないから、笑う時は手で口を覆う。カメラを向けられたら、笑顔で写らない。マイルールが誕生した。
私が中学生の時、元AKB48・板野友美さんの「あひる口」が流行してくれたおかげで、当時の写真の私は大体あひる口で写っている。ありがとう、ともちん。

被写体モデルの仕事をするようになっても、表情の指示がない限りは笑わない。切ない顔の写真ばかり撮られていたら、「切ない顔が得意な被写体」と言われるようになった。
コロナ禍の今、マスクでほうれい線は隠れがちだが、変わらず人前で笑うときは手で口を覆う。その仕草が上品だと言われる。
せめて目だけでもと、集合写真では目だけは優しく笑うようにしている。すると、おしとやかで穏やかそうだと言われる。

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私のイメージのいくつかは、そんなコンプレックスを隠す仕草や表情によって生まれている。
しかもそれらのイメージは事実と全く異なるわけではなく、その仕草をすることで心なしか私も上品で穏やかな性格になっている気がする。
つまり、私のコンプレックスも私を作り出す要素なのである。それもどうやら、プラスの方向に導いてくれているようなのだ。

私のコンプレックスは克服されていないし、今も鏡を見る時は例の研究に余念がない。アプリでほうれい線を消しながら、「この角度は良くないな」とか、「照明の真下は良くないな」とかぶつぶつ言っている。うまく消えなかった写真はこっそり闇に葬っている。

私の友達各位に告ぐ。
5枚くらい撮ったのに3枚しか送られてこなかった時は、そういうことである。
私はこれからも、このコンプレックスを両手で包み込んで、そして優しく抱きしめて生きていく所存である。