子供の頃から、周りの空気に過剰適応する癖があった。
学校では先生、家では親の「こう動いて欲しい」を汲み取り、家族親戚やクラスメイトをその方向に誘導するためのピエロを演じ続けていた。無意識に大人の顔色を見てしまう癖は私から自由を奪い、苦しめ続け、気づいたら息ができなくなっていた。
逃げるように児童書を読み漁ったけれど、本を閉じればまた苦しさはひたひたと足元におりてくる。それでもなぜか、文章を書く時間だけは、ありのままの自分で息をすることを許されるように感じていた。

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文章を書くということ。
思えば、簡単なようで案外難しい。
無限の選択肢の中から、気持ちを伝える為にどの言葉を選び取って紡いでいくのか。その選択に、紡いだ文章に、滲み出るのは紛うことなき『人間性』だ。
一編の文章には、書き手が何に喜び、何を苦手とし、どこに怒って生きてきたのかが如実に反映される。選択という重労働を課された書き手には、人間性を取り繕う暇など与えられない。
学校の宿題だった読書感想文、レポート、どれも誘導したい方向は確実にあった。先生たちは生徒に感動と子供らしい教訓を望んだし、それが分からない私ではなかった。
書く文章の骨組みは確かにほとんど決められているのに、書き上がった文章を読むと、端々でねじ伏せられない『わたし』が自由に息をしていたのだ。それは、日常でねじ伏せられ、別の誰かの代弁者をさせられて息ができなかった私にとって、少しこそばゆく、でもなんだかとても清々しい時間だった。

文章を書くということ。
IT化が進んで、若者の文字離れが加速するかと思いきや、面識のない他人と文章のみで繋がれる機会も転がっていたりする。
書く文章だけで、その人の人間性をなんとなく推しはかれたり。チャラチャラした子だと思っていたら、思いがけず出てきた綺麗な文章にギャップを感じて惹かれたり。
かく言う私自身も、SNSに大きな影響を受けた。
好き勝手自分の話をして、自分の思いを紡いで、それが他人に受け止めてもらえることを知った。すると文章を書いていなくとも、少しだけ自分の意思を尊重できるようになった。誰かの代弁者を、やっと降りられるようになったのだ。

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文章を書くということ。
それはきっと、取り繕わず、自分をありのままさらけ出すことなのだと思う。
どんなに変えようと思っても変えられない自分を、そこに見出す。誰の意志もはたらかない、誰の指図も受けないありのままの自分が、文章の中に確かに息づいているのを感じる。
不特定多数の人間の織り成す社会で暮らしていると、他人の意志が介在して、ありのままの自分の輪郭がぼやけてしまうから。だから人は文章を書くことで、自分をさらけ出して、輪郭を確かめようとするのだろう。

私の文章は、ありのままの『わたし』は、あなたにはどんな風に映りましたか?
ありのままのあなたは、どんな人間ですか?
教えてください。文章を書いて。