私は人よりたくさんの仮面を着けている。会社、友達、家族、恋人、他人の前。それぞれ違う仮面を使い分けている。
誰しもがそうだと思う。けれどほとんどの人が、自分の素顔を知っているのではないだろうか。
もちろん私にもある。でもいつからか、たくさんの仮面の中で認識できなくなってしまった。

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近年、新型コロナウイルスの影響で、大抵の人がマスクを着けるのが当たり前の生活になった。取引先の人、よく行くコンビニのお姉さん、どんな顔をしていただろう?
毎日マスクを着けていると、それが顔の一部となってしまって、周りからもマスクありきで判断される。私の素顔も、そんな感じだ。日々たくさんの仮面を着けていると、それが当たり前になり、自分でもどの時が素顔なのか分からない。

元々、家の中では仮面を着けていなかった。中学生の時、両親が離婚した。私は母の心労を減らしたくて、家事をし、妹の面倒を見て、良い子にした。その時、『良い娘』という仮面が出来た。
私は妹を連れて友達と遊ぶことが増えた。そして妹が大きくなるにつれ、SNSが発達した。妹は時々、私のこともSNSに投稿し始めた。嬉しかった。『良い姉』という仮面が出来た。
そんな風にして、家の中でも仮面を着けるようになった。それでも素顔で居れる場所が、恋人の前だった。

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23歳の時、恋人と別れた。そこから私の中の価値観ががらりと変わった。ありふれた別れだったにも関わらず、人には人の地獄があることを何故か悟った。
意見を否定したり、普通・当たり前という概念が苦手になった。負の感情を抱く『素顔の私』を『理想の私』が否定するようになり、素顔の自分に自信が持てなくなった。人の感情に、今まで以上に過敏になり、気を遣い、疲れやすくなった。

友達には「みんなに好かれたいんでしょ」と言われた。好かれたいなど思っていないと伝えても、どうせ解ってもらえない。人と接するのが億劫になってしまった。
私はただ、人に優しくありたい。素顔の自分では、無意識に誰かを傷つけているかもしれない。それが心配なのだ。

25歳の今、新しい恋人がいる。そしてまた私の価値観が変わり始めている。
優しさとは何なのかを体現しているような人だ。こうありたい、が、こうでなければいけないになっていないか?たとえ負の感情を持っていても、どんな私でも私だ、と教えてくれた。
そこで、私が創りだした仮面はすべて私の理想で、理想こそが正しいと頭の中で思っていたのかもしれないと気付いた。孔子の弟子になった気分だった。
これまでの私は、文章からもわかる通り、仮面を着けることに対して、どこか悪いイメージというか、窮屈に思う節があった。素顔の自分を隠して、ズルをしているような。大きさの合わない靴を履いているような感じだ。
でも、そうではなかった。そんな風に仮面を着けなくても良かったのだ。

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先述した通り、マスクのように仮面は自分の一部になっていく。取り繕って素顔が埋もれていくように感じる。でもそれは、なりたい自分に変わっていく過程で、『素顔の私』と『理想の私』が話し合いをして進む道を決めているのではないか。そうやって段々と『理想の私』も『素顔の私』になっていくのではないだろうか。

今、この文章を書いていて気づいたことがある。
どれが素顔か分からない、と思っている私こそが素顔の私だった。
たくさんの仮面の中で分からなくなってしまうことはあっても、必ずどこかに素顔の私は存在する。これからは前向きに、化粧をするように、なりたい私の仮面を纏っていきたい。背伸びをして頑張る素顔の私であり続けたい。