ずっと、自分の趣味は受け身なものばかりだと思っていた。好きなものはある。音楽を聴くのが好き。お笑いを観るのが好き。アニメを観るのが好き。
でも、それって誰かが創り出したものを消費しているだけで、自分では何一つ生み出していない……。趣味なんてそれでいいじゃないかと言われればそうなのだが、何でも受け身な自分がそんなところにも表れているような気がして、何となくモヤモヤしていた。
「自己完結で結構」。与えられたものを消費するだけでよかった
音楽は好きだけど、自分で歌や曲をつくりたいとは思わない。漫才のネタを書きたいなんて思ったこともない。ちょっとした落書き程度の絵は描くけれど、たいていは何かを写しているだけ。おすすめの音楽やお笑いやアニメをみんなに発信したいかというと、そんなこともない。
他の人が何を好きになろうとどうだっていい。「自己完結で結構」と思ってしまう。結局、私は与えられたものを消費するだけ。好きだけど、それに関して自分が何かしたいわけではないんだ。
好きなことに夢中になって仕事にまでしている人。「好き」には勝てないということば。そういうのを目にするたび、耳にするたび、自分にはそこまでのものはないような気がして虚しくなった。
でも、ある時、いつものように音楽を聴きながら歌を口ずさんでいてふと思った。私は音楽を聴くのが好きだけれど、状況さえ許せば、聴きながら歌っていることの方が多い。曲を流しながらそれに合わせて歌っている時が、一番自分を出せている気がして気持ちがいい。
「私にもちょっと言いたいことがある!書きたい!」と思ったエッセイ
自己表現……。もしかして、私が欲しているのは、これ?そういえば、絵を描く時、既存のキャラクターの写しではあっても自分の気持ちを代弁させていることが多い。お笑いも、ネタそのものだけじゃなく、「この人たちがやっている」という芸人の自己表現的な側面に憧れて観ているような気もする。
私って、意外と自分のことを表現したいのかもしれない。そもそも、受け身な趣味ばかりという悩み自体が、自分を表現できるチャンネルが欲しいという欲求の裏返しだったのかもしれない。
ぼんやりとそんなことを感じ始めていた時に、Facebookに「かがみよかがみ」のエッセイ募集の広告が流れてきた。テーマは「共学・別学に思うこと」。「あ、これなら私にもちょっと言いたいことがある!書きたい!」と、純粋にそう思えた。
エッセイを書くまでの道のりは、不思議と心地よかった
誰かに伝えたい、というよりも、たとえ誰にも読まれなかったとしても、自分の内側にあるものをことばにして表してみたい。そんな思いで、初めて書いたエッセイ「女子校に行ってかわいくなくなった。だって性別に囚われる必要はない」。
自分の中にぷかぷかと浮かんでいる想いというのは、そこにあるのは分かっているのに、掴めそうで掴めない。あれやこれやとことばにして形を与えてみては、「いや、なんか違うな……」と消したり書き換えたりの繰り返し。気がつけば、散歩しながら、ご飯を食べながら、お風呂に入りながら、あの部分はどう書いたらいいだろう……と思いをめぐらせている。
そんな試行錯誤の末にようやくしっくりくるものが思い浮かんだ時には、とても嬉しくなる。分かっているようで分かっていない自分の心の内と向き合う。そしてことばを紡いでいく。エッセイを書く時のそんな道のりが、不思議と心地よく感じられた。
「自分を表現して、誰かに届けたい」。表現への気持ちがあふれた
そうして初めて書いたエッセイは、無事に掲載していただくことができた。味を占めた私は、それからも色々なテーマでエッセイを書いた。他の人が書いたエッセイも読むようになった。
そのうちに、最初は自分の思っていることが書けたらそれでいいやと思っていたのが、だんだん、もっと上手く書きたい。もっと誰かに届くように書きたい。そんな風に思うようになってきた。おこがましい欲求だけれど、拙いなりにこだわりながら、一歩ずつそこに向かって進みたいと。そう思うのだ。
自分のことを表現して、誰かに届けたい。そんな気持ち、自分にはあるわけないと思っていた。でも、それは確かにあるらしい。エッセイを書いてみたことで、その気持ちは輪郭を持ち始めた。
エッセイを書き始めたのは、単なる偶然の重なり。けれど、どうやらそうやって生まれるものもあるようなのだ。