3歳年上の姉が、大学に入学したときのことだ。もう10年は前のことだろうか。
いつものように夕食後、リビングに集まり紅茶などを淹れながら、母と姉と私で話が盛り上がる。どの話の弾みだったろうか。きっかけは忘却の彼方だが、姉は大学の授業について衝撃の話を始めた。

「まよ、学問ってすごいよ」と口を開く。
「まよって、お風呂の後廊下を裸で通って、そのまま素っ裸で部屋の中うろうろしているじゃん?」

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私の名誉のために、そして念のために、補足する。脱衣所と私の部屋をつなぐ廊下は幅30センチほどで、いつも走って駆け抜ける。その時間、1秒もかからない。そして誰も見る人がいないかを、脱衣所からちゃんと確認してからなのだ。ここ大事。名誉のため。念のため。

「だってお風呂の後って、すぐ服着る気にならないし、殆ど誰にも迷惑かけてないから良いじゃん!」と私は言い返す。それで?それが何で学問ってすごいという話になるのだ。私はまだ話の要旨が掴めない。

「たった1秒でも、まよは一応タオルで身体を隠しているでしょう。裸見られるの恥ずかしいっていうたしなみが、まよにもまだあるってことだよね。でもこの広い世界には、そして歴史上には、裸を恥としない文化もあるし、あったんだよ。例えば乳首を見せることが恥ずかしい文化かどうかって、そういう研究もある。乳首を見せるのがどこの文化圏で恥ずかしいのかっていうのは、文化人類学の研究テーマなんだってさ!まよの廊下素っ裸横切り事件と学問がつながっているって、凄いことだよね」と姉は喜々として語りながら、紅茶をすすった。

確かに日本でも鎖国中の江戸時代では、裸への羞恥心がなく、公衆浴場では男女が混浴していたらしい。開国してから、西洋人よりこの風習に批判され、私たち日本人は段々と裸を隠すようになった。
私が30センチの廊下でたった1秒未満とはいえ、家族の前でも裸を一応隠しているのは、現代人である証拠でもあり、歴史的背景がある。確かに学問って、すごい。そして奥深い。

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今回の「素顔の私」のテーマを読んだとき思い出したのは、ワタクシまよが毎晩入浴後に素っ裸で廊下を横切る部屋内裸族である、というかがみよかがみ読者にできれば隠したかったこの事実であり、「乳首の露出に関する文化人類学」という姉のこの話であった。

江戸時代の私たちの祖先が持っていなかった裸への羞恥心のなさが、後世学問として研究される。これってコロナ禍の現在、興味深い類型テーマが発生しているのではないか。
そう、マスクと素顔・すっぴんへの羞恥心に関するテーマだ。コロナ禍のマスクで顔を隠すようになった私たちも、いつか後世で研究・分析の対象になる。私はそう考えている。

コロナ禍となり、マスクが私たちの顔の一部となった。化粧から解放されたと喜ぶ積極的なマスク肯定派もいれば、「マスクは最早顔パンツ」だとマスクの下の顔を見せられないという消極的マスク肯定派もいるだろう。私?私は、マスクの下でもがっつりとメイクをする派だ。

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朝混み合う実家の洗面台を30分占拠する。さあMAKE UP(でっちあげ)の時間の始まりだ。

イエローベースオータムの肌に下地とファンデーションを重ねていく。フィニッシングパウダーをのせると、陶器のような肌の仕上がりに鏡の前で、毎回毎回律義に少し見とれる(自宅の洗面台の鏡ってなんであんなに盛れて見えるのだろうか)。

チークはオレンジ系を斜めにいれる。存在感のない眉毛を描き足し、まゆ毛マスカラで色を載せる。黒目が小さく三白眼気味なのがコンプレックスな裸眼に、度入りのカラコンを入れると、それだけですっぴん感はなくなる。

アイシャドウはオレンジ・ブラウンベース。日によって幅の違う気分屋の二重幅をアイプチで整え、アイライナーを勢いよく跳ね上げる。
毎回てこずるマスカラは、「もうちょっとまつ毛美容液の効果でるといいんだけどなあ」などとぼやきつつ、マスカラ下地から丁寧に。ロング系のマスカラとヴォリューム系のマスカラの二刀流。

そして、全ての仕上げに、シャネルの赤い口紅をすっと引く。赤い線が顔の真ん中を横切るとき、私の中でスイッチが入る。
心なしか背筋が伸び、顔が引き締まる。戦闘モード、オン。よし、これで私の「素顔」の完成だ。

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30分もかけてでっちあげた顔のどこが、「素顔」なのか。なぜなら私は「すっぴん」と「素顔」は違うと考えているから。

「すっぴん」とは「化粧をしていない素のままの顔」のこと。そして「素顔」とは「特に飾らない普段のありのままの自分らしい姿」のこと。私の中の辞書ではそうなっている。だからその定義に従えば、たとえファンデーションで塗り固め、マスカラ両目に10分かけても、それがありのままの自分らしくいられる顔ならば、それが私にとっての素顔なのだ。

それがたとえマスクの下で誰にも見られないものであっても、赤い唇は私にパワーを与えてくれる。私をしゃんとさせてくれる。それが化粧の持つ力なのだろう。人間として生まれ持った顔立ちは変えられなくても、顔つきは自分でどうにかしていくことができる。そして大人になったら顔つきに責任を持たなければいけないと、私は思うから。与えられたものをただ讃えたり嘆くより、自分で、顔も、人生も築いていく。そんな細やかなプライドを、今日も、シャネルの赤い口紅にこめるのだ。

そう遠くない未来、20代女性のマスクすっぴん事情のリアルを研究する研究者が現れるかもしれない。そんなとき、彼/彼女たちはかがみよかがみのエッセイ群を文献として使うときがあるかもしれない。

マスクの下に忍ばせるシャネルの赤い口紅を、誰にも見られないそんなお洒落を、未来の研究者たちはどう分析するのだろうか。
たしなみ?恥じらい?いいや、違うな。私の辞書には、「矜持」と載っている。