自然に始めた「書く」ことは、当たり前の衝動

「文章を書きたい」。その想いは、生まれてこの方ずっと私の中に在り続けているように思う。
陸上選手が「走りたい」と思うように。
歌手が「歌いたい」と思うように。
ピアニストが「弾きたい」と思うように。
それは私の中では自然な感覚で、三大欲求となんら変わりない、当たり前の衝動だ。

昔から考え過ぎてしまう性格で、でも考えたことを全部話してしまえるほどの相手はいなかった。
だから自然と「書く」ということを始めた。
中学生の頃からずっと、ページがいっぱいになったら新調しているMyノートは、「毎日書く」など決めているわけでもないのに、もう8冊にもなる。

思ったことをつらつら書くこともあれば、いいな、と思った言葉をそのまま書き留めるだけのこともある。
時には怒りに任せて殴り書きすることもあるし、自己分析やら、将来の計画やらを、びっしり書き連ねることもある。
時々過去の分を読み返して、消えたくなるくらい恥ずかしくもなるけれど、その時その時の私がすべて繋がって、今の私を形作っている。

言葉にできない気持ちを、言語化してくれた文があった

いろんな人が書いた文章を読んで、もちろん全部に共感できるわけじゃない。
あまり自分には合わなかったな、と思うこともあるし、読んだことでより、感情が迷宮入りしてしまうことだってある。
でも、ときどき「今、この文章に出会えて、本当によかった」と心から思う文章に出会うことができる。
まるでそこに辿り着くのが必然だったかのように。
言葉にならないしんどさ、つらさ、閉塞感、憤り、焦り、絶望感……。
それを言語化してくれる文章は、どんな励ましの言葉をかけられるより、私を闇から救ってくれる。
「あぁ、私が感じていたのはこういうことだったんだ」
「この言いようのない感情を、同じように感じたことのある人がいるんだ」
それは、必死に塞ごうとして、でも塞げなかった心の穴に「別に穴が空いてていいんだよ」と言ってもらったかのような感覚。

世の中には、そうやって自分を救ってくれた文章がたくさんある。
そんな文章や言葉をずっと大切に心にしまって、崩れ落ちそうになったときは、その言葉たちを引っ張り出して、なんとか今まで生きてきたから。
私もいつか、読んだ瞬間じゃなくてもいいから、書いた人が誰か、なんて覚えてなくてもいいから。
誰かの心の隅っこに残って、心に限界がきたとき、さみしさに耐えられないとき、どれだけ悩んでも答えが出ないとき、自分にマルをつけてあげられないとき、ふと思い出して心救われるような文章を、書けるようになりたいなと思うのだ。

闇の中にいる人の隣に寄り添うような文章を

人生のお手本になるようなすごい人たちの書いた、やる気がみなぎる自己啓発本やら、プロのカウンセラーの方が書いた、明るい気持ちで過ごせる方法やら、そんなのは、その分野のプロ達が、もうそれ以上ないものをたくさん書いているから。

私は、暗闇に寄り添える文章を書きたい。
暗い闇の中にいる人の手を引いて、明るい場所に連れ出すんじゃなくて、隣で黙って、一緒に暗闇に座り込むような文章を書きたい。
無理に元気づけようとはしたくない。
正論と、無遠慮な明るさという暴力で、心を殴りつけるようなことは、絶対にしたくない。
正しくなくてもいい。
ポジティブじゃなくてもいいし、「悲劇のヒロイン病だ」って言われてもいい。
それでも、救われたいし、救われてほしいから。

誰もが私のことを好きでないのと同じように、私の書いた文章も、誰もが共感できるものではないと思う。
ただほんの数人でもいいから、普段生きていたらきっと出会うことのなかった場所に住んでいる人、交わることのなかったコミュニティにいる人、関わることのなかった年代の人の中に、「めちゃくちゃわかるわ」って思ってくれる仲間がいたら。
「なんだ、一緒の人いるじゃん」
「生きづらい人生だけど、もうちょっと生きてみよう」
なんて、ひとりでも思ってくれたら。
そして、欲を言えばその人が、私の文章を読んでほんの少しでも救われてくれたら、嬉しいなと思う。

それはきっと、私が救われることでもあるから。