目の前がぐらぐらと揺れる。薬と薬で混濁する意識の中、トイレへ向かう。
1Kの一人暮らしの部屋。短い廊下が迷路のようにゆがむ。四肢の数か所を壁にぶつけながら目的地へと向かい、用を足して先ほどと同様の経路でベッドへ帰る。
混濁した意識の中では四肢の痛みは感じない。ベッドに身体を沈めると、そこにあるのが当然かのように意識が深い暗闇の中へと落ちていく。

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私は暗闇の中で何度も夢をみる。物語の主人公は私だったり私でなかったり、年齢も中学生だったり高校生だったりする。
多くの場合、そこに鬱の自分はいない。自分ではない自分を俯瞰させるような夢は、ショートショートのように多彩な物語を私に魅せる。

カーテンの隙間から白い光が差し込むころ、ふと意識が現実世界に戻る。ぼんやりとした頭は、先ほどの世界が現実だと思い込ませるように私をまた睡眠へ誘う。

カーテンの隙間から差し込む光が黄色になるころ、私はようやく睡眠の手を離れ、現実世界の鬱の自分に戻る。
鉛のように重い身体は、夢の中のようにスラスラと動いてはくれない。まずは行動を考える。スーパーへ行き食料を確保すること、健康のため散歩をすること、休職中の職場から届いた書類に目を通すこと。
目覚めた瞬間の目標を何度も頭で復唱しながら布団の中で蠢く。うじうじと虫のように身体を少しずつ動かして、助走をつける。何度も何度もそれを繰り返して。
でもまたじっと布団の中で動かなくなる。そして目覚めた瞬間に立てた目標は3つから2つに、2つから1つになっていく。

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しょうがない。鬱になってからの言い訳はすべてしょうがないということにしている。本当は「鬱だからしょうがない」と声を大にして言いたい。しかし、それは私の中のプライドが許さなかった。
「低気圧だからしょうがない」
「今年最大の寒波が来ているからしょうがない」
「しょうがない」の前置詞なんて、考えれば山ほど思いつくのだ。そんな「しょうがない」を毎日山のように量産して、なんとか鬱の自分から目をそらす。

しかし、「しょうがない」では済ますことのできない生理現象もある。鉛のような身体を引きずるようにしてトイレへ向かう。そういえば夜もトイレにきたなあ、と、ここで初めて昨晩の自分をぼんやりと思い出す。
用を足し、電気ポットに水を注いでお湯を沸かす。ミルクティーの粉末をマグに入れ、ポットのお湯が沸くのをソファで待つ。お湯が沸き、温かいミルクティーを口に含むと、ようやく「私」の一日が始まる。

壁の薄い賃貸部屋の外からは絶えず電車が走る音が聞こえる。世の中がすでに動き出し、何万人もの人が働いたり、学んだりしているこの街で、私はひとり、時間に取り残されているような不安に襲われる。
不安をミルクティーの甘さで中和する。やりきれない思いは糖分で流してしまえばいいのだと、ここ最近気が付いた。甘ったるく温かい液体が口の中を支配する。これでいいのだと何度自分に言い聞かせたことだろう。
これでいいのだ。すべて甘さに溶けてしまえばいいのだ。

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私が通勤電車に乗っていたころ、私は意識してブラックコーヒーを飲んでいた。高卒で働いていた私にとって、ブラックコーヒーは大人の象徴に思えた。2年も社会の荒波にもまれると、ブラックコーヒーは単なる眠気覚ましに降格してしまったが。

私が鬱になったのは、社会人5年目の夏だった。なんとなく予兆があったのかもしれない。慢性的な食欲不振による体重の減量に疑念を抱いた私は内科を受診した。甲状腺に異変があるのではないかと推測したからだ。
しかし、血液検査の結果は異常なし。問題を先延ばしにしがちな私は、内科の医師の異常なしという診断を盾に、社会人としての生活をつづけた。デスクに向かっても動かない頭、タスクを整理できない頭。何者かわからない不安をやり過ごしていく日々。
爆発は突然だった。
今までなんともなかった会社のデスクがおぞましく感じた。ふかふかの回転椅子に座るだけで恐怖を感じた。突発的に溢れていく涙を抑える術がなかった。

その夏私は、初めて精神科の門を叩いた。結果は鬱病。今までの自分の身体愁訴に病名が付いたことへの安心と、仕事から解放されることへの嬉しさで病名の重さをかき消そうとした。
しかし、日を追うごとに病名が重く感じる。服薬量が増えていく。副作用の逆らえない睡魔は私を捕らえて離さない。活動できる時間が短くなっていく。私の人生が省略されていく。給料が減っていく。窓の外の明るさはいつも私を追い詰める。時間の経過は嫌でも感じさせられる。

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こんな時、私は助けを求めることができない。漠然とした不安感、慢性的な希死感は言葉でどう表せばよいのだろう。両親にも兄弟にも相談できない、彼らの充足した日々に水を差したくない、そんな気持ちに支配されていく。

そんな置き場のない気持ちを昇華させること、それが私の文章を書くということにつながった。Wordの文面は几帳面に私の気持ちを書き並べてくれる。
しばしば、人生がうまくいくことは、「春が来る」というように例えられる。私は文章を書くことでどうにかその春を呼び込みたい。私にとって文章を書くことは冷たく暗い冬を乗り越える手段。
いつか陽の光が煩わしくなくなるその日まで、私はいくつの文章を書くのだろう。