かがみよかがみにエッセイを掲載してもらう時、一度提出したものを修正する機会がある。1週間くらい間を空けて再度エッセイと向き合うのだが、この時間が不健康だなと思うことがある。

特に、しんどい時間に書いたエッセイは、見直すときに2度傷つくというか、当時と同じ深さに潜らなければ修正できなくて、イヤな時間を追体験している気がする。すでに時間が解決しつつあるモヤモヤに身を浸していると、「自分はなぜこんな不健康なことを……」と思ってしまうのだ。

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基本的に、自分が書くときは、人に話せないことを吐き出している。普段は誰かがイヤな気持ちになる話は極力しないし、話せたとしても、あちこちに気を張って疲れてしまうから。自分の「ほんとう」をストレートに吐き出せる場所は少なく、そんな「ほんとう」を人前に出せるように、作品として昇華させている。

それにしたって、暗すぎる。最近書いた吹奏楽のエッセイは特に、自分でも気が滅入るものだった。
自分だってしんどいエッセイを、好き好んで読む人はいない。少なくとも、私が書きたいエッセイとは違う。読み終わったときに、心がほんの少し軽くなるような、自然光が差し込むような文章が書きたい。

身内がクソとか、旦那が不倫してるとか、そういうコンテンツを読み漁った時期がある。ああいうものを読んでいたときの心情は、「この人も頑張っているから、私も頑張ろう」なんてポジティブなものではなかった。誰かが怒ったり苦しんだりする姿に、「この人も辛い」「私と同じ」なんて、何にも生み出さない安心感を得たかったのだ。

たぶん、前にも後ろにも進む気力がなかった頃の自分には、そんな自分を受け入れるために必要な感情だったのだろう。しかし、不健康な愛着というか、ほとんど依存に近い、我を忘れて読み漁ってしまう恐ろしさがあった。

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「しんどい時間」に書いてきたエッセイは、同じように不健康な感情を生むものだったと思う。これからは、健康的な愛着を生み出したい。しんどいときに駆け込んで、背中をさすって話を聞いて。涙が止まればそっと背中を押せる場所に。誰かの言葉に支えられて生きてきたから、誰かの背骨を支える言葉になりたい。

どちらかといえば後ろ向きな作品が多いのは、私が寂しさや冷たい空気に浸っている時間が好きなことも関係していると思う。今はもうないものに、恋い焦がれている時間が好きだ。そういう作品も愛しているけれど、心地よく、前を向ける文章を書くために、少しは嬉しいこと・楽しいことに意識的に目を向けてみようと思う。