本を売買する場所、時間を潰すために入る場所、喫茶店のお供を探す場所……本屋というのはそんな感じで利用する人が多いと思うが、私は本屋というのはもう、とてつもなくでかでかとした、ある種激重とでもいうような感情を向ける場所である。
本屋。そこは私には、実家のごとき安心感に満ちた場所で、しかしそれが物理的な居心地のよさでもなければ故郷という概念からくるわけでもなく、けれど家族がいるからという血縁的な理由でもないのだから、これは単に、帰巣本能の向く場所とでもいうのがいいようにも思う。

こんなことを言っては家族がさめざめと泣くだろうかとも思うが、私は本に向ける愛が溢れてたまらないので、さながら聖母マリアのように、その愛について書こうと思う。

どんな本を読むかと聞かれ、力強く「なんでも!」と返した

まだ開かれてはいないが、少し前、友人と読書会をすることについて話したことがあった。
そこでどんな本を皆で読むかという話になり、「國原さんはどんな本を読みますか?」と聞かれた。
それはTwitterでのやり取りだったのだが、私は誇らしげに鼻の穴を膨らませ、ヤー!の一言でその名を日本中に轟かせたなかやまきんに君に満ち満ちる筋肉のエネルギーのように、自信を指先へ込めて、「なんでも読みます!」と打ち込んだ。

好みはあれど、なんでも読む。知識はなくても図鑑や画集のような前情報が必要な本だってなかなか買わないだけで、読みたい!!!という気でいるし、中高時代は精神疾患の専門書を母に渡した数千円で中古のものを大量に注文してもらうような豪快な読み方をしたし、やはり好物はエッセイと小説だし、もちろん漫画だって、まったく無下には扱わずにがんがん買っていく時期もあった。
本屋へ行くとどうしても好物の2ジャンルを買ってしまうだけで、金と場所と時間が今より一層あれば私はなんだって読むのだ。

本という人間でないものに向けられても、それは愛なのだ

人は愛を与え、そして与えられる生き物である。私も例に漏れずそのような慈愛に満ちた生き物であるとの自覚をしたい。たとえそれが本という、人間でないものにとりわけ向いていても。それは紛うことなき愛なのである。

愛のやり取りは基本的に信頼感や快感情によって行われ、それらが基盤にあってこそできるものだと思う。その感覚が一般に多くある場所のことを心落ち着ける場所、たとえば実家とかだといえるなら、その感覚さえあればどんな空間でも実家といってもよいのではないですか……!?という飛躍した、でも理論的なそれを、言いたい。
だって愛は他者が観測すれば、その輪郭をよりはっきりとさせるでしょう。

本屋に行くと、見たことのあるタイトルが、著者の名前がある。好きな題材、デザイン、フォント、紙質がある。よく見知っていて、親近感が湧き、もっと知りたいと思うことができて、彼ら彼女らの存在するための栄養価に少しだけなれる、そんなさらさらとして、どこか甘い香りの漂う空間にて交わされる生命と非生命の感情のやり取りというのは、紛れもなく愛で、私は、私たちはそれをするために本屋にいるのだ。

私にはこれだけ何かを愛する力があるのだとわかった

これらの純な関係性などから言えるのは、たとえみなが居心地がよいと口を揃える場所で、これを読んでいるあなたが落ち着けなくとも、たとえ愛を交わしたい相手がまわりの人々の想像もつかないそれだとしても、なんら問題はないという話だ。

私は訳あって長らく家にこもりがちなのだが、もうこの空間ではやっていけないと思うことがあっても、本屋がこそが私の生きる、私が生きられる、あるいは私を活かせる場所だと気付いたし、こんなにも本を愛す力があるのだとわかり、これまでよりもさらに、好きな人たちに向ける愛がひどく煌めいたものだと自覚できた。
だから、これを読んだあなたも、ぜひ自分の生命漲れる場所を探し、好きな対象に胸を張って愛を向け、そして誰かにそれを教えてほしい。あなたの心許せる人にそれを教え、またその人が、あなたや私のように生きやすくなれるように向けてほしい。そう思う。

……なんだか宗教の勧誘のようになってしまったが、これがあなたたちに向ける、私の愛なのだ。ほんとうに、ほんとうに。