ある日、久々に外へ出て驚いたことがある。
明らかに今までより、子どもを見かけることが増えたのだ。
公園やフードコートや学校の前はもちろん、スーパーや居酒屋、本屋などもそうだ。ベビーカーや、親に手を引かれた小さな子どもとよくすれ違うようになった。
それだけではない。
子ども用の服やおもちゃなどの店も街中に増えている。
スーパーや雑貨屋で離乳食も多く見かけるようになった。
子育てに力を入れている地域だけあって、少子化のなかでもこんなに子どもが増えているのかと感心した。
◎ ◎
実際には、子どもは急に増えていない。
私には姉がいる。姉が出産したことで、私の目に子どもの姿が留まるようになっただけだった。
この居酒屋は、子どもも楽しめる工夫がある。
この本屋は、ベビーカーが通るには厳しそうだな。
この食料品店は、本格派カレーのレトルトパウチだけでなく、子どもも食べられるカレーを何種類も置いているのか。
今まで気づいてもいなかったひとつひとつが目に入り、気になるようになっていたのだ。
これを、フィルター理論と呼ぶ。
人間の脳は、目や耳などから届く膨大な情報すべてを同時に処理することはできない。注意を向けたものだけ瞬時に選択することで、私たちは何を見て聞いて感じるか、無意識に決定しているらしい。
つまり、私は姉の子どもが産まれるまで、街中の子どもやそれにまつわる物事が「見えていなかった」ことになる。
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会社や学校、家族、親しい友人。
様々な人が関わるこの「社会」の中で、私たちは常に認知のフィルターの先で相手を見ている。
大人だから。子どもだから。
戸籍上の性別がそうだから。
独身だから。既婚者だから。
顔が整っているから。身長が高いから。
お金持ちだから。高学歴だから。
たくさんの情報から目につくものを無意識に選別して、判断している。
それは生きていく上で必要なことだ。
ただ、常に見えていないものの方がはるかに多いということを、覚えていたいと私は思う。
「女性」として生きる私も、「女性だから」という理由で、これまでいろんな言葉や姿勢と対峙してきた。
女性は生きるのが楽でいいよな。
女性に重い責任を課すのが可哀想なので、リーダーは男性にします。
結婚するなら、職場に迷惑かけないようにね。
俺たちの金で、働かずに子どもを育てられていいよな。
……仕方ないじゃん、私たち女なんだし。
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他人からの言葉や判断、制度に思うことはいくらでもある。
私たちはきっと、性別や立場に関わらず、それぞれの認知によって判断され、決定されたことと実際のズレに、やりきれない気持ちを抱えているのではないだろうか。
だから、私がなにかを変えられるなら、迷わず人々の「認知」を選ぼう。
私が見ているものは、あなたが見ているものは、その対象の間違いのない現実か。
面倒がって、単純な分類で済まそうとしてはいないか。
私の決定は、あなたの決定は、誰かの心や人生を曇らせることにはならないか。
見えていないものを、見えていないままで片付けようとはしていないか。
すべてを見て、何もかもを知ることは不可能だ。
すべての人の希望通りにすることも、きっと難しい。
それでも、ひとりひとりが既存の価値観や制度ばかりに縛られず、相手を見て理解して、考えて、考えて、考えて、そして下した決断を積み重ねること。
それが、女性も男性も、大人も子どもも、社会的弱者も強者も、より善く生きること、幸福であることに繋がっていくと、私は信じている。
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ある日、久々に外へ出て驚いたことがある。
明らかに今までより、夫婦を見かけることが増えたのだ。
お揃いの指輪を付けた男女が、手を繋いで歩いている。
なんのことはない、私が結婚した次の日のことだった。
私の認知のフィルターは、またひとつ剥がされた。
生きているうちに、あといくつ剥がすことができるだろうか。
あなたの認知のフィルターは、あといくつ剥がせますか?