「あの人は、なぜいつもあのような態度なのですか?なぜ誰も注意してくれないのですか?」
社会に出てたった一年目の私は、入社した当初あらゆる思い通りにならないことに対して不満を抱いていた。
その不満を顔に出して、態度に出して、相談できる人にはとことん愚痴を吐き、きっと周りを疲れさせていた。

内容は、いつも決まって「あの人は何も変わってくれない」ということを淡々と話し続ける。そりゃあ、話を聞く方も辟易としてしまう。
だけど、社会とはまさに多様性。合う人も合わない人も、好きな人も苦手な人も、色々いるのだ。そのなかで、いかに上手く立ち回れるのかがポイントとなる。

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毎日毎日、出勤の電車の中で一人一人の顔色を伺うことが趣味となっていた私は、ある日思うことがあった。
きっとみんな思い思いの感情で電車に揺られ、行きたくもない職場に行くのだ。生きるためには働かなくてはいけない。その中では、色々な人間関係を超えていかなくてはいけない。楽しみだとか悲しみだとか、やりがいだとかそういうものは二の次で、ただ生きるために今日もみんなは会社に向かってゆくのだろう。
そのうち、電車の中は仮面舞踏会に行くための準備の場のようだと感じるようになった。
みんなプライベートと違う自分を演じに行くのだ。笑顔という名の仮面をかぶって、みんな必死に今日を越えてゆくのだ。なんてかっこいい。みんなが戦友のようにすら思えた。

だけど、私はそのプライベートと仕事の境目を作るのが難しく感じる。
人間だし、嫌なことは嫌だ。朝、同僚のあいさつが小さいだけで何かしてしまったか必死に考える。普通社会人なのなら、人に対して敬意を払うことは当然でしょう。なんで笑顔で挨拶の一つもできないの?と、いつものように不満をつらつらと考える。
私はいつもの私で何も嫌なことはしていないはず。何の恨みがあるのよ。私があなたに何したっていうのよ。こっちも気を遣っているのだから、少しはあなたも気を遣いなさいよ。

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そんな気持ちで一挙手一投足にイライラし、もやもやし、一人で疲弊した。そして、毎日毎日他人のあら捜しを探すことに終始した。それはあら捜しという名の、むやみな自分との比較であり、なんだかそれをすることに疲れてしまった。
なんでいつも、私は自分と他人を区別して物事を考えられないのだろう。きっとあの人にできて私にできないことはたくさんあるのに、自分は完ぺきなわけないのに。自分が世界基準じゃないのに。模範解答なんてなにもないのに。人に求めすぎると一番疲れるのは自分なのに。

考えて考えて、これからの私はどうあろうかと日々思いあぐねた。そして結論は出た。

「他人に期待しない」
それでいいのだ。それが一番自分を守る術なのだ。完璧なんてない。それはきっと自分が作り上げてしまった勝手な模範解答で、それに当てはまらないからって人の良し悪しを分別するような人になるのはやめないといけない。

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その人にはその人の天国があり、地獄があるのだ。その人のことをすべて理解することはできないし、生きていた環境も感じてきたことも学んできたことも何もかも違う。
そんな中で、すべての人と分かり合おうとする必要はないのだ。感情移入をしすぎるでもなく、ただそこに「在る」ものとして心を平和にすることが、一番自分にとって精神安定上よいのだ。
そもそも他人に期待し始めるからすべてがいい方向に進まなくなるのだ。いい意味で、干渉しすぎず、かといって冷酷ではなく、どこか達観しているようなそんなひとに私はなりたい。
百パーセントの共感が、愛じゃない。何もかもを分かってあげることは、ごめんだけれどとても難しいのだ。

あのひとがああだとか、この人がこうだとか、こんなことを言っていただとか、こんな一面が実はあるとか、働いているといろんな情報が入ってくる。だけれど、私はあくまで中立でいられる人になりたい。
一緒に同調するのではなく、いつもそばでただ笑って、表面上は共感はするけれど感情移入をしすぎない力をつけていくことが、未来の自分の課題だ。