最近のSNSは「通報装置」と化している。
だからバズったり、炎上したりしている呟きの最後に、「なんとかならんの?」を付け加えると、結構な割合で文脈が通ります(マジかよ)。……嘘っぽい?じゃあ、やってみよう。
「恋愛禁止のアイドルが、そんなこと発信するんだ」「なんとかならんの?」
「あのコンテンツは不謹慎だから、子どもには与えるべきではないやろ」「なんとかならんの?」
「女性はみんな○○?女性を一括りにしないで」「なんとかならんの?」
結局親たちも、SNSを「通報装置」として利用しているのだ
私達は日々、多種多様な「なんとかしたいこと」に囲まれている。そしてただそう思うだけではなく、「なんとかならんの?」と意識的に、あるいは無意識的に、そして即座に発信できてしまう環境にある。
さらに、その投稿がバズったり炎上したりした際には、現実が本当になんとかなってしまうこともある。良くも悪くも。例えば最近。輸入食品店の店内陳列が変わったのは、ベビーカーユーザーの素朴な呟きがバズった数日後のことだった。
ところで私には、最近気になっている特定のSNSユーザー層がいる。それは、小学生の親だ。
テストの採点や、連絡帳についたコメントの写真。または子どもから聞いた学校でのエピソードなどにまつわる投稿を、SNS上で見かけたことはないだろうか。
中でも私が気になるのは、「物ボケ」「一発ギャグ」系の単発投稿ではなく、小学校を舞台とした決して穏やかではないやり取りを、SNS上で淡々と「実況」する親。
そして私が不可解だと思うのは、その親達が怒りで我を忘れている風には見えない、という点。彼らはSNS上で学校名を出したり、個人を特定させるような情報の出し方はしない。反論にも丁寧に対応し、真摯に説明している。
ではなぜ、一見冷静に見える親が、学校とのやり取りの片手間に、SNS上でそれを「実況」するような投稿をするのか。
正義感?承認欲求?……それもあるのかもしれない。
しかし結局、親もSNSを「通報装置」として利用しているのだと思う。特別意識せずに、いつも通りに。「なんとかならんの?」と思いながら。
リアルタイムの「通報投稿」は、誰かを救うのだろうか
学校だけではなく職場、あるいは家族や友人、パートナーとの間で起こっているトラブルに関する「通報投稿」は、TwitterでもInstaでもよく見かける。
私は数いる「実況者」の中でも、小学生の親がとりわけ気になり、リスキーだと感じる。
全国で約2万校あるうちの1つの「小学校」で起こった個別の案件。それを親という1人の登場人物からの目線で切り取った、真偽も曖昧なリアルタイムの「通報投稿」。
これは大勢の当事者意識を掻き立てるけれど、同時に想像力は大きく削がれている。なぜなら読み手は、各々自分のメガネを通してエピソードをジャッジするからだ。「小学校」に対して人が持つ経験と理想は、各々独自のものでしかない。
SNSは元々「個人的なエピソードを一般化させてしまう特性」を持っている。そしてその特性と「小学校」という場所は、とにかくめちゃくちゃ相性が悪い。……だってみんな「小学校」に行ったことがあるんだもん。
そんな「通報投稿」にぶら下がる、鋭いジャッジに傷つけられるかもしれないのは、自分や我が子を含めた登場人物、あるいは全国の親子と、学校関係者を含めた読み手。
では、小学生の子どもを持つ「実況者」は、本当にそんなリスクを把握できているのだろうか。リアルタイムの「通報投稿」って、もはやギャンブルに近いのかもしれない。出たとこ勝負のオールベッド。掛け金は、家族や他人の日常……。
もうじき小学生になる息子がいる私は、今のところ冷静だ。だから、親の端くれとして考えてしまう。もしも数年後の私が、息子の通う学校との間に起こったトラブルを、解決に至るまで逐一SNS上で「実況」していたとしたら?……その時の私は間違いなく冷静ではない。リスクが全く見えていない。 確実にブチ切れたままに、ギャンブルに興じている。
もはや私達は「通報装置」の一部になりつつあるのかもしれない
私個人としては、「実況者」の中でも小学生の親が特にリスキーだと思っている。では、他の「実況者」はどうだろうか。各々、異なるリスクを抱えさせられてはいないだろうか。
SNSに触れる全ての人々は、日頃から「通報投稿」に見慣れすぎて、「なんとかならんの?」と感じたことはすぐに「実況」した方がいいと、思い込まされている気がする。
モヤモヤしたことは、とにかくSNSで即座にシェア。特別意識せずに、いつも通りに。そして読み手としては、自分のメガネを通してジャッジする。これもいつも通りに。深く考えることもなく、リアルタイムで。
もはや私達は「通報装置」としてのSNSに思考を乗っ取られて、装置の一部なりつつあるのかもしれない。日頃「通報装置」として利用してきたSNSに、冷静さを欠いた瞬間漬け込まれ、呟くことを半ば強制されているのかもしれない。
なにそれこわい。SFかよ……。
SNSが現実を変える世界を、私たちは生きている。良くも悪くも。予期せぬ結末を避けるために、「SNSの文章は上質でないから距離を置く」という、かの文豪のような先手の打ち方もいいのかもしれない。しかし文豪ではない私は、SNSと程良い距離で付き合いたいのだ。
とはいえ。我が子可愛さに怒りで我を忘れ、「通報装置」としてのSNSに思考を乗っ取られて、まるで冷静であるかのように見せかけつつ呟くことを強制される……。私はそんなの、まっぴらごめんだ。
だから私は、先手を打つ。「私は小学校との穏やかではないやり取りを『実況』しない」。発信するならば後日談として、冷静になってから語ることにする。我が子や学校、その投稿を読む赤の他人にリスクを押し付けてまで、私は「実況」することにこだわらない。
未来の私は「通報装置」の一部と化さない。