この二年間、わたしの顔の下半分を覆っていた不織布を除けば、わたしの素顔はあらわになる。わたしはそのとき、どんな表情をしているだろうか。

最近のわたしの顔面は、すっぴんでも肌がきれいに見えるフェイスパウダーと、プチプラコスメのアイブロウと、四色展開のアイシャドウでできている。冬の日照時間の短さとテスト期間を理由にして、わたしの不完全な顔をマスクで隠していた。

高校を卒業して周りの友達はみんなメイクを始めた。不思議だった。高校ではメイク禁止で、平気な顔ですっぴんをさらしていたのに。大学生・社会人になるとメイクをするのが常識になり、むしろ身だしなみの一つとしてみなされる。
どうしてなんだろう。理由は簡単だった。
それはきっと、メイクで誰もがきれいになれるから。見ている人を不快にさせないためなら、合理的だと思う。

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だけどそこには、拭いきれないほどの偏見が含まれている、とわたしは思う。
清潔感を装うのに、メイクは本当に必須なのだろうか。もちろん、メイクを好んでする人が大半だと思うし、わたしもメイクをすること自体はきらいじゃない。鏡の中の自分の肌が血色感を浴び、きれいになっていくのをみるのは楽しい。

だけど。メイクの工程がめんどくさいと思う日もあるし、何となくメイクをする気分にもなれない日だってある。メイクが義務だなんて、思いたくはない。
それに。ファンデーション・リップは一瞬でマスクにつく。だからわたしは普段のメイクでは、ファンデとリップはしないと決めている。どうしてもする必要があるときは、マスクの内側についた汚れを見られないよう、そっとたたみながら外すようにしてきた。
洗濯を繰り返していると、だんだんマスクの繊維が頬をさしたり、少し走れば息が苦しくなり、冬の間はマスク内には蒸気がたまる。そんな理由で、マスクをつける行為は弊害が多く、マスクはわたしにとって、ずっと煩わしいものだった。

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だけどいざ、そんな生活に終わりが見えてくると、本当に外していいのだろうか、と戸惑うわたしがいた。マスクを常に着用するという「非常識」が「常識」に変わり、その精神はもうすでにわたしの心の奥深くまで刷り込まれてしまった。
密じゃないからとマスクを外した人を街中で見かけても、あまりいい気分にはなれない。「非常識」な人に思わず顔をゆがめてしまうような、そんな日々はしばらく続くだろう。たとえ今後、マスクの着用が個人の判断にゆだねられることになっても、マスクを外すことへの抵抗感は残るだろう。

マスクを外せば、わたしにさえ見えないわたしの表情を、名前も知らない他人に見られてしまう。友人との談笑で、どんなに笑顔を繕おうとしても、心から笑っていないことを知られてしまうかもしれない。ここ二年の間に新しく出会った人たちは、わたしがそんな顔だったのかと驚くかもしれない。そんな恐怖さえ浮かんでくる。

きっとわたしは、スマホのカメラロールにマスクを外した写真が増えていく度に、無意識に自分の容姿と他人のそれとを比較してしまうだろう。今までは、化粧下地なしでも誤魔化せていたことが、できなくなってしまう。
変わっていくことは、こわい。未来がどうなるかなんて、誰にも分らないけれど。心のどこかでは、前に進まなければと思う自分がいる。マスクを外した世界には一体、どんなことが待ち受けているのだろうか。