「あ、一度塗りのままでお願いします」
先日、ネイルサロンに行った際の出来事だった。新しい色に変えてもらい、ネイリストさんに色を濃くするために二度塗りをするか尋ねられた時、私は思わずそう断ってしまった。
それは、新しく爪の上にのったシアーなチェリーレッドがあまりに美しかったから。
ピンクともレッドとも言えない暖色で、薄っすら自爪が透けているその状態が儚げで、これ以上色を重ねてほしくないと思った。
それはたとえるなら、セフレと恋人の間のような色だった。

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私には、デートをしている人がいる。彼とは出会って1年になる。出会ったその日から、ずっとデートをしている。恋人ではない。そして友人でもない。身体を重ねる夜もあれば、ラーメンを食べるだけの夜もある。
「つまりはセフレでしょ」
きっとこう思われることが多いのだろう。
でも私は彼を表現する時は「デートをしている人」と表現している。セフレというネーミングに抗おうとしているのではない。それは、私たちの関係でセックスの優先順位が低いから、どうもセックスを前面に出すセックスフレンドがしっくりこないためである。
無理やりセフレという枠組みに入れることで、本当に大切な何かが削ぎ落とされる気がするのだ。

私たちは、名前がないものを受け入れることをひどく躊躇う。
曖昧にしていることに気持ち悪さを感じて、既成の言葉に当てはめようと無意識に働きかける。
「それってつまりはさ……」
若干、言葉の定義にはみ出していても気にしないで組み込む。
セックスフレンドは「セックスをする友だち」だから、と。
でもセックスフレンドって、友だち要素が破綻したらどんな言葉に置き換わるのだろう。
そもそも友だちってなに?
そういう問いは無視する。だって、既成の言葉に友だち・セフレ・恋人以外は存在しないから。このどれかに当てはめなければ、名前がなくなってしまう。それってとても気持ち悪いじゃないか。

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でも、本当はみんな100色鉛筆が大好き。
白から始まり、様々な色に変化をとげながら黒へとなっていくあの一連のグラデーション。
誰も1色1色の名前など気にしていない。
どっちつかずの色を美しいと思う心が備わっているからだろう。
だから、ネイルサロンでカラーチャートを見せてもらうと心が躍る。
その色の名前がS600だろうが意味不明な記号だろうがどうでもいい。
自分の爪にのるその色に名前は必要ないのだ。それってとても無意味じゃないか。

この矛盾をどう受け止めればいいのか悩ましい。
でも、私があの時二度塗りにストップをかけたのは、「あえて曖昧にすること」を初めて目視したからだったのかなと思う。
感情としては煮え切らない気持ち悪さを理解しつつ、現実に目の前に突きつけられたら、その美しさにびっくりしたのだ。
世の中の全ての事象にネーミングしないことで、今まで通過点としか捉えられなかったものが、初めて目に留まるのかもしれないとも思う。
本当はその通過点だと思っていたものが、私たちの人生で大事なポイントなのかもしれない。