分からなくてもいい、ただ何かを見て聞いて、知ること、感じることで少しずつコップの中に水が溜まっていく。ある一雫がぽたりと落ちたとき、表面張力がふつと切れて一度に水が溢れ出す。
その瞬間の、なんとも言えない、あらゆる感情が湧き出す感覚。どうしようもなく泣きたくなるような、叫びだしたくなるような心揺さぶられるあの感覚を何度でも味わいたいから。
私は茶道をやめられない。

「癸卯」。
聞き慣れない人も多いだろう。これは今年の干支だ。
十二支だけで干支が決まるのではない。そこに甲から癸まで10種類が組み合わさった、60種の干支が還っている。60歳を還暦というのもこのためだ。

◎          ◎

今年初の茶道のお稽古。そこで出されたのがこの癸兎の茶碗。60年に一度しか使えない茶碗だ。
一緒にお稽古している方々は若くとも40、50代。
「ああ、このお茶碗使うの最初で最後だわ」
「一度では勿体ないくらい立派ですね」
「でも一度だからこその有難みもありますよね」
私にはまだ分からない価値を、景色を他の方はみていた。
会話の輪に入れず、にこにこしているだけの私に一人が言う。
「なつめちゃんだけよ、もう一度このお茶碗でお茶をいただけるなんて」
それが湧き水となってみなさんも口々に言う。
「ほんとよ、60年後、なつめちゃん80歳くらいだものね」
「その時には60年前これでお茶点てたのよって言わないとね」
「僕も60年頑張ろうかな(笑)。今50だけど(笑)」
どっと笑いが起こる。

そうか、60年もしたら今ここにいる誰よりも私は年長者なんだ。
私にたくさんのことを教えてくださる、同じお稽古場の方々はもういないんだ。
そんなの当たり前で分かりきっていることのはずなのに、切なかった。
年長者になった私は、みなさんと同じところに立てているだろうか。
お点前も知識も気遣いも、全てにおいて圧倒させられるばかりだけれど。

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特に師範代のお点前は別格だ。道具を扱う手はまるで水の中にいるかのように、ゆったりと優雅に流れるようで丸く柔らかい。一つ一つのお道具や所作を慈しんでいることが伝わってくる。にも関わらず、袱紗の皺をぴしりと伸ばす手つきや、動きと動きの間を切るような間の取り入れ方によって、甘ったるさや野暮ったさのない、むしろ気高さに満ちたお点前になっている。

私をいつも気にかけてくださる他の方々の考え方にも、いつもはっとさせられる。全てのことを受け入れ、抗うことはない。そういう考え方もあるよねと強がりでもなんでもなく、涼しげに言ってのける。焦らず今自分がやるべきことをやりなさいと、いつも言ってくださる。
でも流されてばかりで芯がないのとは違う。間違っていると思うこと、自分が大切にしたいと思うことに対しては、川の流れが時に岩をも砕くような、そんな強さと真っすぐさを持ち合わせている。

あんなお点前ができたら、あんな考え方ができたら、どんなに素敵か。これからもっとお稽古を積めばみなさんに近づけるだろうか。
不安は数え切れないほどあるが、60年後も茶道に関わり続けている自分を想像するのは、同時にくすぐったく、楽しみな気もした。

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今の私には見えない、他の方が見ている景色が、その時の私には見えているかもしれない。
今は何気なく通り過ぎてしまうあらゆることに立ち止まって、心を動かすことができるかもしれない。そうしたらコップの水が溢れ出す瞬間に、もっとたくさん出会えるに違いない。
水のように透き通って柔らかく、でも意志という強さを持った人に近づけているかもしれない。

美しいお点前ができるようになりたい。禅語も歴史もたくさん知りたい。御礼の文字は美しい行書で書きたい。ひと目見て、お道具やお軸の価値が分かるようになりたい。

まだまだ道のりは長い。師範代ですら日々学びがあると言うのだ。終わりなどないに違いない。
それでも私は知ることが、感じることがやめられない。心揺さぶられる、コップの水が溢れ出す時の感覚を何度でも味わいたい。それがみなさんと同じところにたどり着く一歩でもある気もする。

ああ、80歳の未来の私。あなたは茶道を続けていますか?
幾度、水が溢れる瞬間に出会いましたか?
水のようなお点前ができるようになりましたか?
水のような心を持っていますか?